丹野 章(たんの あきら、1925年8月8日[1] - 2015年8月5日)は、日本の写真家

生涯 編集

東京都生まれ。日本大学芸術科写真学科を戦後1期生として卒業後、フリーカメラマンが少数の時代にフリーランスとして活動を始める。舞台写真の分野で活躍した後、新感覚の写真のグループVIVOに参加。東京都写真美術館山口県立美術館日本大学芸術学部東京工芸大学ほかに作品がコレクションとして収蔵されている。

写真の著作権の保護期間問題に関わり、日本写真著作権協会(JPCA)の創設に貢献。1970年、著作権法の改正に関して、日本写真家協会を代表し、渡辺義雄とともに、第63回通常国会の衆参両院の関係委員会で意見を述べた[2][3]。これを受けて国会議員の合意形成がすすみ、著作権法が改正され、写真の著作権の保護期間が公表後50年に延長された。1999年著作権法100年特別功労者として文部大臣から表彰[4]

日本写真家協会常務理事、文化庁著作権審議会委員、日本リアリズム写真集団理事長など歴任。日本写真家ユニオン理事長、日本写真家協会名誉会員、日本舞台写真家協会名誉会員。

内弟子に、写真家の谷口雅彦、映像キャメラマンの岡野秀俊がいる。

2015年8月5日急性肺炎のため死去[5]。89歳没。

エピソード 編集

2015年8月に亡くなった際に、「俺は丹野さんの一番弟子だ!」と通夜葬式で豪語し、内弟子だった谷口の目の前で「谷口なんか聞いたことないぞ!」と叫んだ写真家は、明らかに丹野の知的財産目的で谷口らを排除しようとした。実は丹野が亡くなる数カ月前に谷口らは「小●●一には気をつけて」と遺言されていた。当初は表面上物腰低い写真家を信じ遺族はその写真家の言うなりに動いたが、途中から騙されていることを察し、その写真家との関係を切った。谷口のアシスタントは、このことがショックで写真家への道に進むことを辞めた。この罪は大きい。

年表 編集

脚注 編集

主な著書 編集

外部リンク 編集