久明親王

日本の鎌倉時代中期~後期の皇族、後深草天皇の六男又は七男。鎌倉幕府8代将軍。一品、式部卿、征夷大将軍

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府第8代征夷大将軍

久明親王
鎌倉幕府8代将軍
続柄 後深草天皇第六皇子

身位 親王
出生 建治2年9月11日1276年10月19日
山城国平安京
死去 嘉暦3年10月14日1328年11月16日
山城国平安京
埋葬 神武寺
配偶者 中御所惟康親王の娘)
  冷泉為相の娘
子女 守邦親王久良親王煕明親王、聖恵
父親 後深草天皇
母親 三条房子
役職 一品式部卿、征夷大将軍
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生涯 編集

第89代後深草天皇の第六皇子。正応2年(1289年)9月、従兄の前将軍・惟康親王に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した。当時の皇室は2年前に久明の兄にあたる伏見天皇が即位、さらに2年後には甥の胤仁親王(後の後伏見天皇)の立太子と持明院統優位の状態の中、更に勢力を盤石化させる過程で持明院統からの将軍就任を望んだ結果という皇室の事情が影響している。それまで、母親の身分が低かったために親王宣下を受けられなかった[注釈 1]が、将軍就任が決定したことで同年の10月1日に親王宣下、6日に元服、9日に将軍宣下が行われ、10日には鎌倉に向かって出発している[1]。鎌倉より久明親王を迎える役目を担ったのは飯沼資宗であった。その役目が理由であるか不明ながら上洛と前後して資宗は御内人としては異例の検非違使に任官。上洛後は軍勢を率いて上皇御所や検非違使別当を訪問するなど権勢を誇示し、将軍宣下を家格向上のデモンストレーションとして利用した。鎌倉下向初期の幕政は資宗の父平頼綱によるいわゆる「恐怖政治」の体制だった。4年後には平禅門の乱で頼綱・資宗親子らが滅亡して得宗北条貞時が主導を握り続けることになったが[2]、体制の変遷に関わらず将軍は名目的な存在に過ぎなかった。ゆえに在職中の業績は特になかったが、冷泉為相和歌の師としていた久明親王は鎌倉歌壇の中心として歌合を主催しており、貞時も複数の和歌を久明親王邸で詠んでいる。親王自身の和歌も22首が『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など8つの勅撰集に入集している[3]

永仁元年(1295年)には前将軍・惟康親王の娘中御所を正室に迎えた。惟康の娘婿になることで、惟康と久明の間に形式的ながら世襲関係が成立することになった[1]。中御所は正安3年(1301年)5月に後継者となる守邦親王を生んだが、嘉元4年(1306年)7月に流産により死去している[1]

延慶元年(1308年)8月に貞時によって将軍職を廃され、京に送還されて出家した。交代する形で8歳の守邦親王が将軍となった。交代の理由や経緯については伝えられていないが、3年前に発生した嘉元の乱の発端となる北条時村誅殺が将軍の命(あくまで形式上で実質的には貞時の意向)であるとされており、混乱収拾の一環として将軍交代を敢行して後継者である北条高時への憂いを無くすためとも、持明院統による将軍世襲を既成事実化するためともされている。

鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と放逐同然の形で京都へ送還されていたが、久明親王の場合京へ送還された後も幕府との関係は平穏であったようで、嘉暦3年(1328年)に53歳で薨去した際には幕府は50日間沙汰を停止し、翌年正月には百箇日法要が鎌倉で行われている[4]

守邦親王の他に、歌道の師である冷泉為相の娘との間に生まれた久良親王がいる。久良親王の次男は臣籍降下源宗明)して従一位大納言まで昇っている。また鎌倉幕府滅亡後に天台座主となった聖恵も久明親王の子とする説もある[5]

官歴 編集

将軍在職時の執権 編集

系譜 編集

子の煕明親王は五辻宮と呼ばれ、その子孫はは富明王(富明親王)、久世、五辻入道宮・筑紫宮僧、成煕と続いた[7]

久明親王の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源在子
 
 
 
 
 
 
 
後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源通宗
 
 
 
 
 
 
 
源通子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西園寺公経
 
 
 
 
 
 
 
西園寺実氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一条全子
 
 
 
 
 
 
 
西園寺姞子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
四条隆衡
 
 
 
 
 
 
 
四条貞子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坊門信清の娘
 
 
 
 
 
 
 
久明親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三条公房
 
 
 
 
 
 
 
三条実親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中山忠親長女
 
 
 
 
 
 
 
三条公親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西園寺公経
 
 
 
 
 
 
 
西園寺公経次女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三条房子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

偏諱を与えた人物 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ もっとも母三条房子の父である三条公親は前内大臣かつ西園寺公経の外孫と出自は低くはなかったが、後深草天皇の后・宮人の中において西園寺家直系の女性に対して格下に甘んじる立場であった。
  2. ^ 父の義宗宗尊親王、子の守時守邦親王と、赤橋流北条氏の当主は代々、皇族将軍と烏帽子親子関係を結んでいた[8]。ただし久時は惟康親王在任時、守時は久明親王在任時からそれぞれ官位を受けるなど既に元服していた可能性もある。

出典 編集

  1. ^ a b c 曽我部、2021年、P241-242.
  2. ^ 竹ヶ原 2014, p. 158
  3. ^ 細川 2015, pp. 139–140.
  4. ^ 細川 2015, pp. 141–142.
  5. ^ 細川 2015, p. 142.
  6. ^ a b c d 竹ヶ原 2014, p. 152
  7. ^ 赤坂恒明『王と呼ばれた皇族 古代中世皇統の末流』吉川弘文館、2020年
  8. ^ 山野 2012, p. 182

参考文献 編集

外部リンク 編集