久米愛

日本の弁護士、婦人運動家

久米 愛(くめ あい、1911年〈明治44年〉7月7日[1][2] - 1976年〈昭和51年〉7月14日[1][2])は、日本初の女性弁護士の一人。日本の女性運動において指導的な役割を果した。旧姓・保原[3]

略歴 編集

1911年、大阪府にて出生[1][2]夕陽丘高等女学校[要出典]、津田英学塾(現・津田塾大学)を経て、明治大学専門部女子部に入学[1][2]

1938年に高等文官試験司法科試験に合格し、中田正子三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となる[4][注 1][注 2]

1946年、明治大学短期大学教授に就任し、1966年まで務める[1][2]

1950年、日本婦人法律家協会(現・日本女性法律家協会)を設立、会長に就任[1][2]。以後、死去するまでの25年間にわたって会長職を務める[2]

1959年以降、政府代表として度々国連総会に出席[1][2]。婦選会館理事を務めるなど、市川房枝らとともに女性運動をリードした[1][2]

1976年、膵臓がんのため[要出典]死去。65歳没。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 弁護士の開業は2年後の1940年になる[1][2]
  2. ^ 昭和8年弁護士法改正による。これ以前には明治26年弁護士法があり第2条に資格要件として「成年男子タルコト」と性別要件が規定されていた。それ以前の明治5年司法職務定制、明治9年代言人規則には性別規定はなく、この頃の女性代言人として園輝子英語版が知られている。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i "久米愛". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年5月18日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j "久米 愛". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2024年5月18日閲覧
  3. ^ 日本放送出版協会 編『日本の『創造力』 近代・現代を開花させた四七〇人』 14巻《復興と繁栄への軌跡》、日本放送出版協会、1993年11月、375頁。ASIN 4140092181doi:10.11501/13327140ISBN 4-14-009218-1NCID BN10002813OCLC 838668366全国書誌番号:94025954 
  4. ^ 石河コウヘイ (2024年4月2日). “『虎に翼』モデルの三淵嘉子はどんな人? 女性法曹の先駆者として波乱万丈の生涯”. リアルサウンド 映画部 (blueprint). https://realsound.jp/movie/2024/04/post-1618813.html 2024年5月18日閲覧。 

参考文献 編集

外部リンク 編集

  •   ウィキメディア・コモンズには、久米愛に関するカテゴリがあります。