今州利(いますり、こんすり、こんつり、生没年不詳[1])は、鋳金工和歌山県橋本市隅田八幡神社が所蔵する国宝隅田八幡神社人物画像鏡』の製作者[1]

鏡銘 編集

隅田八幡神社人物画像鏡』の鏡銘は、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」とある[2]

解釈 編集

癸未年に開中費直穢人(かわちのあたいえひと)と今州利の2人で銅鏡をつくったとする読み方や、開中費直(かわちのあたい)と穢人今州利(あやひといますり(こんすり、こんつり))、すなわち、開中費直と穢人今州利の2人で銅鏡をつくったと解する読み方など諸説ある[1]

西田長男三品彰英名児耶明などは、「開中」は「かわち」と読み「河内」、「費直」は「あたい」で姓(カバネ)、「穢人」は「あやひと」と読み「漢人」、「今州利」は「こんすり(こんすり、こんつり)」でとし、「遣開中費直穢人今州利二人等」を「河内のあたい」と「あやひとこんすり(こんすり、こんつり)」の「ふたり等を遣わし」と解している。すなわち、「開中費直穢人今州利」=「河内直とその配下の漢人今州利」と読んでいる[3][4]

一方、「開中 - 費直を河内 - 直と解し、穢人を『あやひと』ともよむが、確証はない」という意見もある[5]

穢人(濊人)説 編集

伊藤英人は、「穢人今州利」を字面通り「穢人今州利」と解し(は『三国志』では「濊」と表記、『漢書』食貨志では「穢」と表記される)、「503年に百済王斯麻(武寧王)の命により大和の工房に派遣され銅鏡を作成し、即位前の継体に贈った際の派遣技術者『穢人今州利』が日本列島において確認される濊人の活動の痕跡である」と述べている[6]。なお、平壌市大同江南岸の楽浪区域から出土した平壌貞柏洞364号墳の初元四年(紀元前45年)の楽浪郡県別戸口簿と『論語竹簡は、紀元前1世紀の朝鮮半島における漢字使用を伝える[7]。平壌貞柏洞364号墳は、板槨墓という墓制の特徴から衛氏朝鮮以来の現地の楽浪郡府属吏が墓主と推定される。すなわち、紀元前45年に平壌の「現地系」人士が『論語』を学んで属吏となり、漢字を使用していた[7]。紀元前後の楽浪郡に存在した現地系民族として確実に存在が確認できるのは濊人であり、平壌の楽浪郡の古墳群から出土した銀印には「夫租薉君」の印記があり、武田幸男は、夫沮(沃沮)すなわち咸鏡道一帯から遠い平壌の地に埋葬されるほどに濊人が楽浪郡との関係を深めていたことを指摘している[7]紀元前128年南閭は、28万人を連れて投降した。投降を受けて漢は蒼海郡を設置する[7]武田幸男は、蒼海郡の郡治咸南咸興永興に比定しており、紀元前2世紀に濊人咸鏡南道で活動していた。また、『魏書』東夷伝韓条に「桓霊之末,韓濊彊盛,郡県不能制,民多流入韓国。」とあり、濊人韓人と共闘して中国の郡県支配に抵抗していた。また、『魏書』東夷伝濊条に「自単単大嶺以西属楽浪郡,自領以東七県,都尉主之。皆以濊為民。」とあり、素直に読めば、楽浪郡の「民」は濊人であり、『魏書』東夷伝韓条は「国出鉄,韓・濊・倭皆従取之。」とあり、濊は、弁韓(朝鮮半島最南端)でと接していた。さらに、迎日郡浦項市)出土とされる銅印には「晋卒善穢佰長」が出土している[7]吉本道雅は、「近年の考古学的知見をも勘案すれば、江陵など江原道南部への新羅の文化的影響は夙に四世紀後半に認められるが、六世紀半ばには、『濊人』はなお高句麗の指揮下に百済新羅と交戦しえたのであり、江原道全域が新羅の支配化に入るのは、それ以降のことである」と述べている[7]李成市は、『三国史記』巻四十・蜀官志・武官条に登場する「靺鞨国民」が濊人であることを指摘しており、統一新羅以降も濊人は「靺鞨国民」の名で存在し続けた。以上から、紀元前2世紀から統一新羅以降を含む長期間、咸鏡江原慶北を中心とする日本海岸を中心とする朝鮮半島の広範囲で多くの濊人が活動しており、百済新羅高句麗には多くの濊人が暮らしていた[7]

脚注 編集

  1. ^ a b c 日本人名大辞典+Plus今州利』 - コトバンク
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典隅田八幡画像鏡』 - コトバンク
  3. ^ 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』天山舎〈上巻〉、2002年12月。ISBN 4924916021 
  4. ^ 名児耶明『書の見方 日本の美と心を読む』角川学芸出版〈角川選書〉、2008年1月10日、31頁。ISBN 4047034193 
  5. ^ 日本人名大辞典+Plus開中費直穢人』 - コトバンク
  6. ^ 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、412頁。 
  7. ^ a b c d e f g 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、371-373頁。