今福 友清(いまふく ともきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。譜代家老衆。駿河国久能城主。

 
今福友清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年
死没 天正9年5月15日1581年6月16日
改名 友清→長閑斎/浄閑斎(号)
戒名 月岩紹心庵主
墓所 深川浄心寺
官位 岩見守
主君 武田信玄勝頼
氏族 今福氏
虎孝友久昌和
養子:昌常
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略歴

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今福氏甲斐源氏奈古氏を遠祖とする一族[1]。『甲陽軍鑑』によれば、長閑斎は70騎を有していたという[1]

武田氏は天文年間に信濃侵攻を本格化させるが、『高白斎記』によれば天文22年(1553年)の信濃国筑摩郡侵攻において「今福石見守」が刈屋原城(現・長野県松本市)の城代となり、知行地を巡り信濃国衆の海野下野守と争論が発生したという[1]。この記事が初見史料とされる[1]。また、『高白斎記』によれば、信濃深志城主・馬場信房平瀬城主・原虎胤が甲府参府中に、長閑斎は横田康景と共に在番と仁科衆への監視を務めている[1]

永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは嫡男・今福虎孝が従軍しているため、この頃に長閑斎は隠居していると考えられている[1]

永禄11年(1568年)12月6日、武田氏は駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。『甲陽軍鑑』「武田法性院信玄公御代惣人数之事」に拠れば、長閑斎は駿河・久能城(現・静岡県静岡市)の城主を務めたという[2]。久能城は駿河侵攻において後北条氏が富士郡駿東郡に侵攻した際に、対後北条氏の拠点城郭として久能山に築城され、駿河侵攻時には武田一族の板垣信安(左京亮)が城主となっている[2]。武田氏は元亀2年(1571年)には駿河を領国化し後北条氏との甲相同盟も回復しており、『甲陽軍鑑』「惣人数之事」は元亀・天正年間の記事と推定されているため、長閑斎は板垣の後任として久能城主になったと考えられている[2]。久能城は富士川以西・大井川以東の地域における支配拠点で、長閑斎は地域支配を担う「駿東郡司」(郡代)の権限を持っていたと考えられている。

天正5年(1577年)3月6日には鉄山宗鈍に自身の逆修供養(生前供養)を依頼している[1]。天正9年(1581年)、病没。法名は「月岩紹心庵主」[1]

子孫

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家督は嫡男・今福虎孝(丹後守、善十郎友実、子に今福友直がいる)が継承し、久能城主の地位も継承している。虎孝は天正10年(1582年)に徳川氏の侵攻で自刃する。今福友久(丹波守)・今福昌和ら次男以下も討死し、生き残った養子・今福昌常(新左衛門、和泉守、長坂光堅の次男)と孫の友直は徳川氏に仕えている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 平山(2008)、p.306
  2. ^ a b c 平山(2011)、p.72 - 73

出典

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  • 黒田基樹「今福浄閑斎」柴辻俊六編『武田信玄大事典』 (新人物往来社、2000年)
  • 平山優「今福浄閑斎」柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』 (新人物往来社、2008年)
  • 平山優「長閑斎考」『戦国史研究』第58号、2009年
  • 平山優「戦国大名武田氏の駿河支配に関する一考察-久能城主今福長閑斎を中心として-」『戦国大名武田氏と甲斐の中世』磯貝正義先生追悼論文集刊行会、2011年