伊丹万作

1900-1946, 映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。

伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年明治33年)1月2日 - 1946年昭和21年)9月21日)は、日本映画監督脚本家俳優エッセイスト挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。

いたみ まんさく
伊丹 万作
伊丹 万作
本名 池内 義豊 (いけうち よしとよ)
別名義 水田 豊平 (みずた とよへい)
池内 愚美 (いけうち ぐみ)
青山 七造 (あおやま しちぞう)
生年月日 (1900-01-02) 1900年1月2日
没年月日 (1946-09-21) 1946年9月21日(46歳没)
出生地 日本の旗 日本愛媛県松山市湊町2丁目
死没地 日本の旗 日本京都府京都市上京区
職業 脚本家映画監督俳優エッセイスト挿絵画家
ジャンル 映画挿絵随筆
活動期間 1918年 - 1946年
活動内容 1918年挿絵画家としてデビュー
1927年伊藤大輔のもとで脚本を執筆
1928年片岡千恵蔵プロダクションに入社、監督デビュー
1934年新興キネマに移籍
1937年東宝映画に移籍
配偶者 池内キミ(1904年 - 2004年
著名な家族 長男:伊丹十三
内孫:池内万作
内孫:池内万平
長女:大江ゆかり
女婿:大江健三郎
外孫:大江光
主な作品
國士無双』 / 『赤西蠣太』 / 『無法松の一生
 
受賞
毎日映画コンクール
脚本賞
1948年手をつなぐ子等
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「日本のルネ・クレール[1]」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り[2]片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇[3]稲垣浩とともに新生面を開いた[注釈 1]。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した[2]。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。長男は映画監督・俳優の伊丹十三、長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は作曲家の大江光、俳優の池内万作池内万平

来歴・人物 編集

挿絵画家から映画界へ 編集

1900年(明治33年)1月2日愛媛県松山市湊町2丁目24番地に、官吏の父・義行と母・キクヨの長男として生まれる[4][5][6]。後に2人の妹が産まれた[4]

1906年(明治39年)、松山第一尋常小学校(現在の松山市立番町小学校)に入学、この秋に神戸新開地の掛小屋で初めて活動写真を見る[4](この時に観た活動写真は、日露戦争の実写であった[4][7])。1912年(大正元年)、旧制愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学。在学中に同窓の中村草田男伊藤大輔重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を作り[6]、雑誌の口絵や挿絵を描いた[注釈 2]

1917年(大正6年)3月、松山中学を卒業後、美術の道を志望するが父の反対と[6] 家庭の事情で[4] 父とともに樺太に渡る。父は綿屋を営み、万作は伯父の店を手伝わされた[9] が、父の商売が失敗したため半年後に帰郷[3]、叔父の柴山猪虎馬を頼って上京し、彼の務める鉄道院に勤務した[4]。その傍ら独学で洋画を学んだ。

1918年(大正7年)、鉄道院を退職し[4][6]、2月に少年向け雑誌『少年世界』でに石黒露雄の小説『木枯吹く夜』の挿絵を描いて挿絵画家としてデビューする[10]。同月の誌上には池内都夜坊の名で『ゴリラとピンくん』という漫画も掲載している[10]。その後は本名の池内義豊の名で『少年世界』の挿絵を担当し、1919年(大正8年)には水田豊平のペンネームで『中学生』の挿絵も描いている。1920年(大正9年)からは同年刊行の『新青年』『女学生』の2誌も担当し、計4誌で挿絵を描いた。この頃から池内愚美の筆名を使っていた。

同年、映画製作の事業に乗り出した松竹松竹キネマ俳優学校の研究生を募集した。万作は伊藤大輔にこれに応募することを勧め、上京してきた伊藤と本郷区根津須賀町の下宿2階3畳で同居生活を始める[7][11][注釈 3]。しかし、翌1921年(大正10年)には大家から即時撤退を要求され、そのうち伊藤も試験をパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり一定の給費を受けるようになったため、谷中真島町の下宿で別々の部屋に暮らした[7]。同年5月、補充兵として広島の野砲連隊に3ヶ月間入営した[10]

1922年(大正11年)、演習召集を受けて三週間ほど服役[10] し、その後伊藤と青山南町で再び同居生活を始めた[11]。この頃2人でしきりに映画を見て歩いており、好きな俳優はフランク・キーナンだったという[7][12]。また、この頃の挿絵の収入は百円内外あったという[11]。同年、さらに絵画を勉強するためと、肺病で松山に療養している親友の野田実を見舞うために松山に帰省する[10][11][注釈 4]

1923年(大正12年)、関東大震災後に上京、長崎村初山滋と同居し、後に隣に小さな家を借りて自炊生活をした[10][11][12]1925年(大正14年)、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『朱樂』を作り、絵画の他、随筆・評論なども発表する[6]。一方、芸術性を追求するうちに挿絵の仕事は減り、1926年(大正15年)には松山に帰郷して重松、白川晴一と松山市三番町におでん屋「瓢太郎」を開店する[6][注釈 5]。始めは繁盛したが、年明け頃から経営は悪化し、1927年(昭和2年)夏に借金を残して閉店した[7][13]。同年、知人夫妻を描いた油彩画『市河夫妻之像』が岸田劉生の目に留まり、激賞される。この絵は中村草田男によって第1回大調和美術展に搬入され入選したが、画家の道は断念している[6]

同年10月、京都に暮らしていた伊藤大輔に手紙を出して彼の食客となった[14]。当時伊藤の食客だった人に香川良介中川藤吉[注釈 6] がいる[7]。伊藤のすすめで映画脚本を書くようになり、『花火』と『伊達主水[注釈 7] を執筆する[3][7][14]。11月、奈良谷崎十郎プロダクションが設立されると、香川、中川らとともに同プロに入り、俳優としての日々を過ごした[7][14]。奈良には1か月しかいなかったが、その間に書いた脚本が『草鞋』であった。12月、香川の台湾巡業に同行し、俳優として舞台に立った[7][14]

映画監督へ 編集

1928年(昭和3年)4月、台湾から帰国した万作は、5月10日に設立された片岡千恵蔵プロダクション(略称:千恵プロ)に脚本家兼助監督として入社し、同プロ第1回作品『天下太平記』で脚本を執筆する[3][7][14]。この時から伊丹万作の名を使用した(この名は伊藤大輔が命名した[1])。同年11月には『草鞋』を映画化した『仇討流転』で監督デビューする。しかし、体が弱かった万作は同年に病気療養のため松山へ移り、そこで『絵本武者修行』と『金忠輔』[注釈 8] のシナリオを執筆した。前者は自身でメガホンを取るものの、撮影開始直前に病気が再発したため稲垣浩が代わりに監督して完成された[14][15][16]

1930年(昭和5年)、野田実の妹であるキミと松山で結婚[6][17]。この年に監督復帰し、『春風の彼方へ』『源氏小僧出現』『逃げ行く小伝次』の3作を発表。1931年(昭和6年)4月、林不忘原作の『刀傷未遂』を『元禄十三年』と改題して脚色するが、シナリオ改訂中に病臥に伏したため、本作も稲垣が代わりに監督して完成させた[18]。同年は同作の他『金的力太郎』と『花火』を監督している。

1932年(昭和7年)、伊勢野重任原作の『國士無双』を監督。本物の剣豪が贋物に敗れるという内容で、その知的で諧謔に満ちたユーモアが注目を浴びた。また、この作品は「これまでの日本映画監督が持っていなかった〈散文精神〉を作品の中に盛り込んだ[1]」と絶賛され、キネマ旬報ベスト・テンに第6位でランクインした。続いて村松梢風原作の『人間飢饉』を脚色・監督した『闇討渡世』を発表し、風刺と諧謔の精神で平手造酒の孤独を描いたが[19]、検閲により大幅にカットされた[6]

1933年(昭和8年)、自身初のトーキーとなる予定だった『江戸ッ子神楽』の撮影を行うが、片岡千恵蔵と意見が衝突し撮影は中止となる[20][21]。代わって佐伯清が書いたシナリオを脚色した『渡鳥木曾土産』を監督し、続いて山手樹一郎原作の『一年余日』を脚色・監督した『武道大鑑』を年またぎで製作。『武道大鑑』製作後の1934年(昭和9年)、伊藤監督の『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』で脚本と応援監督を務めたのを経て、5月に千恵プロを退社して新興キネマに移籍[6][20]1935年(昭和10年)に移籍第1作で、自身初のトーキーとなる『忠次売出す』を発表。同年、千恵プロに出向して『戦国奇譚 気まぐれ冠者』を脚本・監督した[22][23]

1936年(昭和11年)、千恵プロの日活提携復帰作品となった『赤西蠣太』を監督。志賀直哉の短編小説を原作に、伊達騒動を背景に醜男の武士の恋を描いたこの作品は、作者の志賀本人も大絶賛し[3]、キネマ旬報ベスト・テン第5位になるなど高い評価を受けた。伊丹にとっても『國士無双』と並ぶ代表作となった。

同年、アーノルト・ファンク監督の日独合作『新しき土』で共同監督に要請され、万作は「自分の本領はシナリオにあって、監督にはない」と主張して固辞するがきかれず[21][24]、共同監督を務めることになった。しかし、脚本執筆時からファンクとは意見が対立し、万作はファンクとは別に作品を撮り、結果、ファンク版(ドイツ版)と伊丹版(米英版)の異なるバージョンが完成した[25]。万作は「撮影には二倍の時間と労力を費やし、一年間の精力を意もなく浪費したのである[26]」と本作のことを語っており、彼の失敗作となった。

1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオ金子洋文原作の『故郷』と、岡本綺堂原作の『権三と助十』を脚色・監督。同年9月10日、J.O.スタヂオと他3社[注釈 9] の合併で東宝映画が設立され、万作は東宝映画東京撮影所に移籍する。同年、初の著作集『影画雑記』が出版される[6]1938年(昭和13年)、『レ・ミゼラブル』を翻案した[3][24]巨人傳』を脚本・監督するが、これが最後の監督作品となり、公開後に肺結核を患って闘病生活を送った。

1940年(昭和15年)、東宝を退社し[6]1941年(昭和16年)2月に日活多摩川撮影所に移籍、再起の作品として岩下俊作の『富島松五郎伝』を『いい奴』の題名でシナリオ化するが、健康が優れない理由から企画段階で見送られた[27]

1942年(昭和17年)、戦時統合による合併で日活は大映となり、万作は大映所属となる。同年、山本有三原作の『不惜身命』を脱稿し、映画化も企画されるが、情報局の事前脚本審査で却下された[6]1943年(昭和18年)、『いい奴』が稲垣浩によって『無法松の一生』の題名で公開される。同年、恩田木工原作の『木綿太平記』を執筆し、五所平之助監督によって映画化が予定されたが、再び情報局の事前脚本審査で却下された[6][28]。11月、山口県屋代島(周防大島)に転地療養[28]

1944年(昭和19年)、シナリオ『手をつなぐ子等』を執筆。翌1945年(昭和20年)、遺稿『東海道膝栗毛』(依田義賢原作)を執筆し、大映の1946年(昭和21年)度の正月映画に予定されるが、連合軍総司令部民間情報教育局(CEI)の検閲により映画化不許可となった[6][29]。1946年『映画春秋』8月号に「戦争責任の問題」を発表。

1946年(昭和21年)、6月頃から田中正造の生涯を描く構想を練っていたが[1]、病状が悪化し、同年9月21日午後6時30分、伊藤大輔と妻子に看取られながら、京都市上京区の自宅で死去[28]。満46歳没。辞世の句は「病臥九年更に一夏を耐へんとす」[30]

万作は、脚本家として弟子を取らなかったが、橋本忍だけには目をかけアドバイスをしており、実質的な弟子であった。伊丹の助監督から後年名を成した監督としては市川崑がいる。

没後 編集

没後に映画化された作品は、『手をつなぐ子等』(1948年、稲垣浩監督)、『俺は用心棒』(1950年、同監督)[注釈 10]、『恋風五十三次』(1952年、中川信夫監督)[注釈 11] で、『不惜身命』と『木綿太平記』は映画化されることはなかった。

1961年(昭和36年)11月15日筑摩書房より『伊丹万作全集』全3巻が志賀直哉、伊藤大輔、北川冬彦中野重治の監修で刊行された。第1巻に52作の著述、第2巻に44作の著述、第3巻に『花火』『天下太平記』『國士無双』『闇討渡世』『忠次売出す』『赤西蠣太』『無法松の一生』『不惜身命』『手をつなぐ子等』の脚本が収録されている。

1997年(平成9年)12月20日、長男の十三が満64歳で亡くなり、2004年(平成16年)7月1日には妻のキミが満100歳で死去した[31]

2010年(平成22年)6月に、ちくま学芸文庫から『伊丹万作エッセイ集』が再刊された。

作品の現存状況 編集

万作の監督作品全22本の内、現存するのは8本(うち断片2本)のみで、『新しき土』『故郷』『権三と助十』『巨人伝』は完全尺で現存しており、『戦国奇譚 気まぐれ冠者』は75分尺、『赤西蠣太』は78分尺のものが現存している[32]。『國士無双』は東京国立近代美術館フィルムセンターが21分尺、マツダ映画社が8分尺の断片をそれぞれ所蔵しており、大阪芸術大学は『花火』の33秒尺の断片を発掘・所蔵している[32][33][34]

フィルモグラフィ 編集

監督作品 編集

Category:伊丹万作の監督映画も参照

脚本作品 編集

Category:伊丹万作の脚本作品も参照

出演作品 編集

  • 放浪三昧(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 安藤兵衛 役
  • 続万花地獄 第一篇(1928年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役
  • 続万花地獄 第二篇(1929年、片岡千恵蔵プロダクション) - 肉植幸安 役

著作 編集

著述 編集

  • 時代映画の存在理由に就て(1933年)
  • 私の活動写真傍観史(1936年)
  • ルネ・クレール私見(1936年)
  • 映画界手近の問題(1936年)
  • カメラに関する覚え書(1937年)
  • 人間山中貞雄(1938年)
  • 映画の普及力とは(1940年)
  • 演技指導論草案(1940年)
  • 映画と癩の問題(1941年)
  • 映画と民族性(1944年)
  • 戦争中止を望む(1945年)
  • 政治に関する随想(1946年)
  • 戦争責任者の問題(1946年)

著作集 編集

  • 影画雑記(1937年、第一文芸出版社)
  • 静臥雑記(1943年、国際情報社出版部)
  • 静臥後記(1946年、大雅堂
  • 伊丹万作全集 全3巻(1961年、筑摩書房
  • 伊丹万作エッセイ集(1971年、摩叢書) - 大江健三郎

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた
  2. ^ 『楽天』は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという[8]
  3. ^ 「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。[7]
  4. ^ 「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。[7]
  5. ^ 「瓢太郎」は松山最初のおでん屋と言われている[7]
  6. ^ 『私の活動写真傍観史』では、中川は『下郎』の作者と紹介されている
  7. ^ 1928年(昭和3年)に稲垣浩監督が『放浪三昧』の題で映画化した
  8. ^ 1931年(昭和6年)に振津嵐峡監督が『快侠金忠輔』の題で映画化した
  9. ^ 他の3社は、ピー・シー・エル映画製作所、東宝映画配給、写真化学研究所
  10. ^ シナリオ原題『昔を今に』
  11. ^ シナリオ原題『東海道膝栗毛』

出典 編集

  1. ^ a b c d 伊丹万作KINENOTE、2015年2月3日閲覧
  2. ^ a b 伊丹万作日本大百科全書コトバンク、2015年2月3日閲覧
  3. ^ a b c d e f 佐藤2007、p.49
  4. ^ a b c d e f g 冨士田1985、p.245
  5. ^ キネマ旬報1976、p.36
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伊丹万作伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 伊丹1936
  8. ^ 『中村草田男全集11』、みすず書房、1987年、p.160
  9. ^ 米田1985、p.295
  10. ^ a b c d e f 古川千家「挿絵画家時代の伊丹万作の仕事」『愛媛大学法文学部論集. 人文学科編』第25巻、愛媛大学法文学部、2008年、23-66頁、CRID 1050860708481592064ISSN 1341-9617 
  11. ^ a b c d e 冨士田1985、p.246
  12. ^ a b 伊丹万作・大江健三郎編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298
  13. ^ 記念館便り「昭和2年のお正月」、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧
  14. ^ a b c d e f 冨士田1985、p.247
  15. ^ 米田1985、p.196
  16. ^ 三省堂1995、p.57
  17. ^ 冨士田1985、p.248
  18. ^ 米田1985、p.302
  19. ^ 時代劇映画世界大百科事典、コトバンク、2015年2月3日閲覧
  20. ^ a b 冨士田1985、p.249
  21. ^ a b 佐藤忠男『映画史研究』
  22. ^ 冨士田1985、p.250
  23. ^ 戦国奇譚 気まぐれ冠者、日活作品データベース、2015年2月3日閲覧
  24. ^ a b 冨士田1985、p.251
  25. ^ 原節子主演 映画「新しき土」公式HP、2015年2月3日閲覧
  26. ^ 伊丹1961、p.246
  27. ^ 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)、2015年2月3日閲覧
  28. ^ a b c 冨士田1985、p.253
  29. ^ 『戦後京都のあゆみ』、京都民報社、1988年、p.183
  30. ^ 伊丹万作、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2015年2月3日閲覧
  31. ^ 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻共同通信、2013年1月13日閲覧
  32. ^ a b 伊丹万作東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年2月3日閲覧
  33. ^ 主な所蔵リストマツダ映画社、2015年2月3日閲覧
  34. ^ 花火大阪芸術大学、2015年2月3日閲覧

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集