伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年明治8年)9月22日[1][2] - 1958年昭和33年)6月23日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

伊丹 松雄
生誕 1875年9月22日
日本の旗 日本 岡山県
死没 (1958-06-23) 1958年6月23日(82歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896年 - 1927年
最終階級 陸軍中将
指揮 第9師団
勲章 従三位
勲二等旭日重光章
功四級金鵄勲章
中華民国 二等嘉禾章英語版
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
配偶者 小夜
子女 親雄(長男) 智子(長女) 政子(次女)
親族 内田定槌(妻の父)
市来吉至(長女の夫)
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経歴 編集

岡山県出身[1][2][3]士族伊丹親恒の長男として生れる[1]。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[1][2]、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる[1][3]。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業[1][2][3]。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任[1]参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した[1]

1906年(明治39年)6月から1909年(明治42年)3月まで参謀本部付としてブラジルに派遣された[1]。1907年(明治40年)11月、歩兵少佐に進み、参謀本部員、兼大山元帥副官、アメリカ差遣、陸大教官を歴任[1][3]。1912年(明治45年)6月、歩兵中佐に進み、南米出張、アメリカ大使館武官を務め、1916年(大正5年)1月、歩兵大佐に昇進[1][3]。同年8月、歩兵第29連隊長に転じ、第4師団参謀長、参謀本部課長、参謀本部付を歴任し、1919年(大正8年)7月、陸軍少将に進級しイギリス大使館付武官に発令された[1][2][3]

1922年(大正11年)2月、参謀本部第2部長に就任[1][2][3]。1924年(大正13年)8月、陸軍中将となる[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、第9師団長に親補され、1927年(昭和2年)7月に待命となり、同年9月、予備役に編入された[1][2][3]。その後、1933年の明倫会結成時の理事を務めた[1][4]

親族 編集

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、13-14頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』80頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124-125頁。
  4. ^ 『朝日新聞記者の見た昭和史』中野五郎著
  5. ^ 帝国秘密探偵社編「大衆人事録 外地・満支・海外篇」,帝国秘密探偵社,1940年,p.台湾5
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献 編集

  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年