伊吹(いぶき)は[31]日本海軍巡洋戦艦(竣工時は一等巡洋艦[3][5]。 艦名は伊吹山に由来する[32]

伊吹
母港呉に停泊する伊吹(1915年12月26日)[1]
母港呉に停泊する伊吹(1915年12月26日)[1]
基本情報
建造所 呉海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等巡洋艦[3](装甲巡洋艦[4])
巡洋戦艦(1912年8月28日-)[5]
級名 鞍馬型巡洋戦艦
母港 [6][1][2]
艦歴
計画 第三期拡張計画[7]
発注 1905年1月31日製造訓令[4]
起工 1907年5月22日[8][9]
進水 1907年11月21日[8][2][10]
竣工 1909年11月1日[8][11][注釈 1]
除籍 1923年9月20日[12]
その後 1924年12月9日解体完了[13]
要目
常備排水量 14,636英トン[14][8]
1912年時:15,087.772英トン[15]
1920年調:14,600英トン[2]
満載排水量 15,595トン[要出典]
全長 485 ftin (147.83 m)[16]
水線長 (451 ft 0 in (137.46 m)[注釈 2])
垂線間長 450 ft 0 in (137.16 m)[14][16][2][8]
最大幅 75 ft 6 in (23.01 m)[2]
または75 ft 4+78 in (22.98 m)[14][8]
水線幅 75 ft 4.75 in (22.98 m)[16]
深さ 42 ft 3 in (12.88 m)[14][16]
または44 ft 0 in (13.41 m)[8]
吃水 26 ft 0 in (7.92 m)[2]
または、平均:26 ft 1+58 in (7.97 m)[14][8]
または26 ft 1 in (7.95 m)[16]
1912年時:26 ft 6+58 in (8.09 m)[15]
ボイラー 宮原式混焼 両面10基、片面8基[17][2]
主機 カーチス式単式直結タービン 2基[18][2][8]
推進 2軸[19][2] x 255rpm(計画)[20]、またはx 270rpm[8]
出力 計画:24,000実馬力[14][8][注釈 3](21,600SHP)[20]
速力 計画:22ノット[14][2][20]
または22.5ノット[8]
燃料 1920年時:石炭2,000トン、重油218トン[2][8]
乗員 計画乗員:844名[8]
竣工時定員:841名[21]
1920年調:817名[2]
兵装 竣工時
45口径12インチ(速射[14])砲 連装2基4門[8]
45口径8インチ(速射[14])砲 連装4基8門[8]
4.7インチ(速射[14])砲 単装14門[8]
短3インチ砲 4門[14]、または3インチ単装砲 6門[8]
安式18インチ(45cm)水中発射管 舷側2門、艦尾1門[14][8][22]
三八式二号18インチ魚雷[23]
1918年[24]
30cm砲 連装2基4門
20cm砲 連装4基8門
12cm砲 14門
8cm高角砲 2門
8cm子砲 4門
発射管 3門
1920年[2]
安式30cm砲 4門
四一式20cm砲 8門
安式12cm砲 14門
四一式8cm砲(子砲) 4門
四一式短8cm砲 4門
麻式6.5mm機砲 3挺
水中発射管 3門
探照灯 5基
装甲 舷側:7in(177.8mm)-4in(101.6mm)[25]KC鋼[8][注釈 4]
甲板:3in(76.2mm)[25]
砲塔:7in(177.8mm)-5in(127mm)[25]
司令塔:8in(203.2mm)[25]
バーベット 125-180mm[要出典]
または、水平防御平坦部2in(インチ)、傾斜部2in、水線甲帯7in、上甲帯5in、砲台5in、露砲塔7in[14]
搭載艇 計画:56ft水雷艇1隻、40ft艇 1隻、42ft汽艇2隻、30ftカッター4隻、30ft伝馬船2隻、20ft伝馬船1隻[26]
1920年:11隻[2]
最終時(1922年):56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)1隻、40ft小蒸気船2隻、40ftランチ1隻、30ftカッター4隻、30ft通船2隻、20ft通船1隻[27]
その他 (無線電信)略符号
GIB(1908年10月28日-)[28]
GIV(1912年10月25日-)[29]
JGT(1913年1月1日-)[30]
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概要 編集

第三期拡張計画により建造された装甲巡洋艦(後に巡洋戦艦)の1隻[7]。 姉妹艦は鞍馬[33]。 「伊吹」は元々巡洋戦艦鞍馬と完全な同型艦として計画されたが[34][32]、 起工直前に戦艦安芸とともにタービン搭載に改められ、設計に時間を要し起工は遅れた[35][34]。 先に進水した安芸の工事を一時中止し、伊吹は事前実用実験の目的で竣工が急がれた[36]。 結果主力艦としてイギリス戦艦ドレッドノート等に次ぐ早い時期のタービン搭載艦となり、これはアメリカ合衆国ドイツフランスに先んじ、日本海軍がタービン機関採用に積極的であったことを示す証拠とされる[34]

1911年ラーマ6世の戴冠式のためにタイを訪問[37]第一次世界大戦初期に、第一南遣枝隊としてインド洋オーストラリア南太平洋などを行動[38]。 1916年相模丹後宗谷のロシア引渡のために須磨と共にウラジオストクへ派遣[39][40]。 1920年のシベリア出兵時に沿海州方面の警備に従事した[37]

ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となり[32]、 解体された[13]

機関 編集

伊吹の計画当初はレシプロ主機を予定し、実馬力22,500、速力21.25ノットとされていた[20]。 伊吹と安芸はタービン搭載に変更、伊吹の機関計画は以下の通りになった[20]

  • 回転数:225rpm
  • 実馬力:24,000(軸馬力21,600)
  • 速力:22ノット

タービンの製造費を抑えるために伊吹と安芸の主機は同一とし、両艦用のタービンと推進器4基は伊吹用の真空ポンプ、注水ポンプ、復水器と共にフォアリバー社(Fore River[41])と1906年(明治39年)6月1日、475,000ドルで製造契約を結んだ[20]。 なおカーチス・タービンの製造権も7月1日に(マリン・タービン社と[注釈 5])契約、購入した[42]

タービンは軸車の直径27ft、心棒の全長27ft3inで、前進が7段落、後進2段落、1基の総重量は約150トンだった[43]

同年(1906年)11月に行われた筑波の公試によると、伊吹搭載予定の宮原式は29,000実馬力の力量があると推測された[44]。 伊吹はレシプロより蒸気消費量の少ないタービン機関に変更されたため、更に32,300実馬力、23ノットが可能と思われた[44]。 その件をフォアリバー社と交渉した所、「タービンの能力は270rpmで27,000軸馬力(24,500実馬力)が可能な計算だが、復水器の能力が21,600馬力までしか無く、復水器の能力を上げても22ノットが限界」という回答だった[44]。 艦政当局はタービン噴口の改造などで、速力22.75ノットとしようと会社と交渉を行った[45]。 フォアリバー社は推進器を直径13ft6in、ピッチ10ftに計画を変更したが、速力は依然と22ノット以上は保証しなかった[46]。 実際、1909年(明治42年)8月12日の全力公試では、速力20.865ノットの成績に留まった(詳細は#公試成績を参照)[46]

呉海軍工廠では艦政当局に指揮を仰ぎ、以下の対策を行った[47]

  • 現在装備する推進器(直径13ft6in)とフォアリバー社での新計画による推進器(直径12ft)を長崎三菱造船所のテスト水槽で実験し、最適な推進器を求める
  • タービン噴口を広げる
  • 復水器の改造

1910年(明治43年)6月23日に再度公試を行い、速力21.16175ノット(詳細は#公試成績を参照)を記録した[48] が、計画速力には達しなかった[49]

なおカーチス式タービン導入に際し実地の整備操縦を拾得するため、1908年1月当時呉海軍工廠造機部員だった重村義一海軍機関少監を造船監督官に任命した[50]。 彼はアメリカへ、ついでイギリスに渡り、クレオール号やアメシスト号などに乗艦し研究、1909年6月に帰国して伊吹の艤装員となり[50]、 翌年に伊吹の初代機関長となった[51]

建造スピード 編集

伊吹は安芸進水後の1907年(明治40年)に起工したが、 輸入したカーチスタービンの到着が安芸用より先になり、蒸気タービン機関の試験艦としての性格を兼ねることとなった[34][52]。 戦艦安芸がまだ呉海軍工廠第三船台で建造中に特命検閲があり、井上良馨元帥が小幡文三郎造船部長に「主力艦は、予算に制限がなければ何か月で進水できるか」と尋ね、小幡は「6か月」と即答した[34]。小幡にはほんの2-3年前に「4か年」と称し、多忙な戦時下に巡洋戦艦筑波を実際に1か年で進水させた実績はあるもののこの回答に工廠長、検閲使ともに驚いたのだが、小幡は造船先進国イギリスが試験艦であった戦艦ドレッドノートを特急工事で仕上げて4か月で進水しているのを見て「英国が4か月ならわれは6か月でできるであろう」と考え、すでに工程まで検討済みであった[34]。伊吹の起工式の日小幡は工員全員を集めて「今度の艦は今から正味6か月で進水する。しかも日曜や休日は、決して出業しない。また残業もしない。いっさい実時間の作業である。責任は私が持つ。今日はよぶんの加給をつけてあげるから、諸君はいまから帰宅し、風呂にはいって一杯やりたまえ。そのかわり明日からしっかり全力をあげて作業せよ。お金は仕事をしただけ余分にあげる」と訓示し、実際伊吹は起工から6か月で進水した[34]

竣工は鞍馬安芸より先となった[34]

艦歴 編集

建造 編集

 
本艦の武装・装甲配置を示した図。

1905年(明治38年)1月31日呉海軍工廠で製造するよう訓令が出された[4]。 この時点で製造予算が不足しており、香取鹿島の余剰予算や第二号装甲巡洋艦(後の榛名)の予算から流用することが決まっていた[53]。同年6月11日、日本海軍は第一号装甲巡洋艦の艦名を伊吹と内定する(寅号装甲巡洋艦鞍馬を予定)[54]

1906年(明治39年)8月17日、艦尾にスターン・ウォークの設置が決まった[55]。 また同年11月に混焼装置設置の訓令が出された[56]

1907年(明治40年)5月22日呉海軍工廠第三船台で戦艦安芸(同年4月14日進水)の次に起工[34][32]。 同年11月21日午前9時30分、本艦は進水[32][10]第一号装甲巡洋艦は制式に伊吹と命名される[31]。同日附で一等巡洋艦に類別[3]

竣工は1909年(明治42年)8月31日の予定だったが、砲の吹掃装置の計画がまとまっていないなどにより竣工予定は9月30日[57]、 次いで10月31日と変更[58]、 実際の竣工は11月1日(または11月2日[注釈 1])となった[11][32]。 竣工時には吹掃装置の改造などが間に合わなかった[11]

1910年度 編集

竣工後も艦隊編入(就役)はせず[59]、 明治43教育年度(1909年12月1日-1910年11月30日)は第1予備艦で4カ月、第2予備艦で8カ月を過ごした[23]

1910年(明治43年)12月1日第1艦隊に編入された[60]

1911年度 編集

ラーマ6世の戴冠式に伏見宮博恭王が参加するため、1911年(明治44年)11月から12月までの御召艦としてタイバンコクを訪問している[37]。 伊吹は第一艦隊の役務のまま御召艦となり[61]、 供奉艦は呉鎮守府警備艦のが指定された[62][63]。 10月19日時点での定員は881名(傭人16名を含む)、派遣には軍楽隊27名も乗艦した[64]。 伊吹は11月9日(午前8時53分[65]、または午前8時55分[66])呉を出港し11日(午前11時4分[65][67])佐世保港に入港[68]、 11番浮標に繋留した[67]。 11月14日(午後2時24分[69])佐世保で伏見宮博恭王が乗艦し[70]、 同日(午後3時30分[65])出港[71]、 11月19日9時10分、香港に入港し[65]、 イギリス軍艦錨地第2浮標に繋留[72]、 先行していた淀と合流した[65]。 翌20日石炭550トンを搭載、イギリス要塞司令官が来艦した[73]。 21日(午前11時[65])香港を出港し[68]、 11月27日バンコクに到着[68]、 午後3時(または午後3時11分[65])チャオプラヤ川河口から12カイリの位置に投錨した[74]

11月28日午前9時15分伏見宮博恭王は伊吹を退艦し、艦載水雷艇で淀に移乗した[75]。 同地で伊吹は満艦飾の実施や礼砲の交換などを行った[75]。 11月29日と30日に阿蘇山丸から石炭を搭載した[76]。 12月1日に戴冠式が行われ、伊吹は昼(午前8時から日没まで)は満艦飾を、夜(午後5時半から0時まで)は電飾を行った[77]。 なお2日以降も戴冠式の関連行事が続いており、伊吹は2日から4日まで満艦飾と電飾を継続した[78]。 12月2日から3日間、伊吹の下士卒は1/3づつに分けて上陸、バンコク市内を見学した[78]。 12月5日、バンコク在留民100名余りを伊吹に招待した[79]。 12月6日、2日に上陸時間の少なかった乗員(2日の約半数)を上陸させ、多数の士官がシャム海軍兵学校を見学した[80]。 12月7日観兵式が行われ、伊吹・淀から陸戦隊が参列予定だったが、イギリスロシアが参列しないこと、乗員の疲労が重なっているなどの理由で参列は断念、伏見宮博恭王が参加した[81]。 12月9日午後4時40分、伏見宮博恭王が伊吹に乗艦した[82]

帰路は12月10日12時に単艦で出港[68][83]、 12月19日香港に入港[68]、 9時10分イギリス軍艦錨地第2浮標に繋留した[84]馬公に寄港し石炭を搭載する予定だったが取りやめられ[84]、 香港で石炭(1,200トン[65])と淡水を搭載し[85]、 21日(午後3時25分[65]、または午後3時30分[86])、香港を出港した[68]。 12月28日(午後1時[87]、または午後2時[65])に横須賀へ入港し[71] 6番浮標に繋留、午後2時51分に伏見宮博恭王は退艦した[88]

1912年度 編集

1912年(明治45年)1月18日、主砲砲塔上に3インチ子砲を装備する訓令が出された[89]

1月22日を出港、北の警備を行い2月8日佐世保に帰投した[71]

1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[90]。 伊吹以下4隻(筑波生駒鞍馬伊吹)が巡洋戦艦に類別された[91][5]

同年12月1日、第1艦隊を外れた[92]

1913年度 編集

1913年(大正2年)2月12日、ビルジキールを改造し、改造前後で動揺試験を行うよう訓令が出された[93]。 また同年(1913年)度予算で弾薬庫等の通風冷却装置の改造訓令[94]、 タービン注油溢出管装置や油冷却器の改正認許[95]、 タービン内部乾燥装置の新設改造認許[96]、 冷却装置改造により不要となった冷却器室を倉庫や要具庫に改造することを認許[97]、などの命令が出された。

1914年度 編集

1914年(大正3年)3月13日、第1缶室内にある単面を掃除のために開放した所、ボイラー内にあるドラム鏡面に外部に膨らんだものがあることが判った[98]。 原因究明のために原因調査委員会が組織され、6月1日付けで調査報告書が提出された[99]

同年4月2日から[100] 4月19日まで呉鎮守府艦隊の旗艦となった[101]。 また同年8月10日から[102] 8月19日まで旗艦となった[103]

第一次世界大戦 編集

第一次世界大戦では、インド洋まで進出して通商保護に従事した[32]1914年(大正3年)8月26日、宮島を出撃[71]、 8月末、英国との共同作戦によりインド洋・南洋方面で英国船を襲撃していたドイツのエムデンに対抗するため巡洋艦「筑摩」とともにシンガポール経由でジャワ島方面に向かったが、出撃の情報が到着の数日前にシンガポールで流布し、ドイツ側に察知されてエムデンを捕捉することができず、この間エムデンはベンガル湾で英国汽船5隻を撃沈、シンガポール日本領事館の駐在武官荒城海軍少佐が「シンガポールの在留日本人が噂を流したことで作戦が失敗し、英国に対して面目を失した」として日本語紙記者に住民に対し警告を発するよう求めたとされている[104]。 10月1日、特別南遣枝隊が伊吹、筑摩、日進で編成された[105]。 12月25日甲島へ入港[71]、 翌1915年(大正4年)1月17日、横須賀軍港に帰投した[38]

1915年度 編集

秋の大演習では青軍第4戦隊として参加[1]、 12月4日、横浜沖の大礼特別観艦式に参列した[1]

1916年度 編集

1916年(大正5年)3月20日、特務艦隊(司令官山中柴吉[39])が伊吹と須磨で編成された[106]ロシア相模丹後宗谷の引渡のため[39][40] 3隻と共に伊吹は3月28日呉を出港[107]、 須磨と途中合流し[39]、 3月31日佐世保を出港[71]、 4月3日正午ウラジオストクに到着[108]、 3隻の授受は4日正午に行われた[40]。 5日にはゴンダッチー提督やロシア艦隊司令長官シュリッツ中将等の将校を伊吹に招いた[109]。 同日午後4時ウラジオストクを出港[110]、 4月8日舞鶴に帰投した[71]

1917-1918年度 編集

大正6年(1917年)度に巡航タービンを新設した[111]。 また以前に問題になったボイラーのドラム鏡板換装などの修理を行った[112]。 巡航タービン設置工事の完了予定は駆逐艦椿の新造工事があったため、1918年(大正7年)9月15日に延期[113]、 8月になり更に9月30日まで延期された[114]

なお大正9年3月調艦艇要目一覧表によると大修理(大改造)は同年2月[注釈 6]施行となっている[2]。 同年12月1日、第3艦隊第5戦隊に編入された[115]

1919年度 編集

1919年(大正8年)7月22日大湊を出港、沿海州方面へ出勤し、7月17日清津に帰投した[71]

8月19日から25日の間、伊吹、鞍馬、明石の3隻は富山県伏木石川県穴水輪島金石港を訪問した[116]。 24日・25日には金石港に停泊し、伊吹、鞍馬の乗員約500名が上陸し金沢市を訪れた[117]。 この2日間の一般観覧者は約2万人となった[118]

1920年度 編集

1920年(大正9年)5月から9月、沿海州警備に従事[37]シベリア出兵の支援に用いられた[32]。 5月22日小樽を出港、8月26日同地へ帰投した[71]

9月20日、第5戦隊を外れ、第2艦隊第3戦隊に編入された[119]

11月5日、大正天皇皇太子(当時19歳。のち昭和天皇)が広島県・大分県を行啓することになり、神戸港で御召艦「伊吹」に乗艦する[120][121]。供奉艦は軽巡洋艦「球磨」であった[120]。 11月6日午後4時20分、「伊吹」は別府港に到着した[122][121]。 11月7日、皇太子は「伊吹」を退艦、九州地方を巡啓した[123][124]

11月15日夕刻、皇太子は「清見丸」および駆逐艦「谷風」を乗り継ぎ、部崎泊地(北九州)に停泊中の「伊吹」に乗艦する[125][126]。 11月16日午前8時、艦隊は江田島湾に到着した[126][127]。皇太子は海軍兵学校に行啓し、在学中の高松宮宣仁親王(皇太子弟宮)、博忠王朝融王と対面した[127][128]。 翌17日午前7時15分、皇太子は「伊吹」から「球磨」に移乗する[129]大山祇神社を参拝後、「伊吹」に帰艦した[129][130]。その後、御召艦「伊吹」は瀬戸内海を航行する[129]。 11月19日午前6時45分、「伊吹」は横須賀に入港した[131][132]。午前9時20分、皇太子は「伊吹」を退艦し[131][132]、本艦は御召艦任務を終えた。

12月1日第3戦隊を外れた[133]。 以降艦隊編入は無い[134]

1921年度 編集

1921年(大正10年)9月中旬から下旬にかけて豊後水道で行われた連合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)の射撃訓練に於いて、浅間と伊吹は標的を曳航する曳的艦任務を行った[135]

廃艦 編集

1922年(大正11年)2月6日締結のワシントン海軍軍縮条約により、海軍は「伊吹」の廃艦を決定する[32]1923年(大正12年)9月20日、除籍[12]、 艦艇類別等級表からも削除された[136][137]。 兵装等の撤去工事は呉海軍工廠で行われ、11月15日ボイラー撤去に着手[138]、 22日魚雷発射管を撤去[139]、 25日砲塔撤去の終了[140]、 27日舷側装甲撤去に着手した[141]。 装甲は上列から順に撤去していき、下列の撤去は1924年(大正13年)1月16日終了[142]、 第1期廃棄作業は2月16日終了した[143]。 船体は川崎造船所に払い下げられた後、同年12月9日に解体完了した[13]

その後 編集

搭載していた2基の主砲は、津軽要塞大間崎砲台[144]豊予要塞丹賀砲台に転用されたが、丹賀砲台に移設した砲塔は暴発事故を起こし1942年昭和17年)に失われている。[要出典]

1925年(大正14年)、通商保護をした縁で伊吹の縮小模型が日本政府からニュージーランド政府に寄贈された。この模型は現在ニュージーランド国立博物館テパパに収蔵されている。[要出典][145]

1939年洋画家荒井陸男が第一次世界大戦中の伊吹をモチーフとした『軍艦伊吹、豪州ニュージランド軍隊護衛』を製作。オーストラリア側に渡ったとされるが[146]所在は不明。

公試成績 編集

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
1909年8月12日[46] 公試全力[46] 右:252.15rpm
左251.13rpm
(平均:252rpm[46])
27,353.0 SHP 20.8675ノット 標柱間2往復[46] [48]
1909年8月12日 6時間続航 250.2rpm 27,142 SHP [46]
1910年6月23日 全力 右:265.075rpm
左:265.05rmp
28,977.05 SHP 21.16175ノット 竣工後の実施 [48]

艦長 編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 秀島七三郎 大佐:1909年4月1日 - 1910年12月1日 *兼呉海軍工廠艤装員( - 1910年4月1日)
  • 秋山真之 大佐:1910年12月1日 - 1911年3月11日
  • 関野謙吉 大佐:1911年3月11日 - 1912年3月1日
  • 伏見宮博恭王 大佐:1912年3月1日 - 12月1日
  • 小林恵吉郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年10月14日
  • (兼)奥田貞吉 大佐:1913年10月14日 - 11月12日
  • 竹内次郎 大佐:1913年11月12日 - 1914年5月6日
  • 加藤寛治 大佐:1914年5月6日 - 1915年2月1日
  • 川原袈裟太郎 大佐:1915年5月1日 - 12月13日
  • 中川繁丑 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 大内田盛繁 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 小松直幹 大佐:1917年12月1日 - 1918年9月10日
  • 森本義寛 大佐:1918年9月10日 - 11月10日
  • 海老原啓一 大佐:1918年11月10日 - 1920年11月20日
  • 福田一郎 大佐:1920年11月20日 - 1922年6月10日
  • 山名寛一郎 大佐:1922年6月10日[147] - 1922年11月10日[148]
  • 松平保男 大佐:1922年11月10日 - 1923年9月1日

ギャラリー 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b #M42公文備考16/伊吹製造の件(2)画像55、呉鎮第3558号の2では本日(明治42年11月2日)授受としている。「軍艦伊吹授受ノ件 軍艦伊吹船体機関兵器 全部 但電気的砲火指揮系統通信装置十二伊八伊砲吹掃装置及揚機装置改良工事未済ノ侭 本日呉海軍工廠長ヨリ伊吹艦長ヘ授受結了ス 右御届ス(終)」
  2. ^ #日本の戦艦(上)2001p.107による。しかし垂線間長、全長と比較すると明らかに短く、数値に疑問がある。
  3. ^ #日本近世造船史明治(1973)391頁では、27,000馬力としている。
  4. ^ #昭和造船史1pp.776-777、では8インチとなっている。
  5. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.445-446に契約先の記載は無いが、製造権の支払い先は「マリンタルビン社」となっている。
  6. ^ 11月の誤?

出典 編集

  1. ^ a b c d e #日本海軍全艦艇史上巻p.53、No.0089の写真解説
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  3. ^ a b c #達明治40年11月p.15『達第百二十九號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄一等ノ下「鞍馬」ノ次ニ「伊吹」ヲ加フ 明治四十年十一月二十一日 海軍大臣男爵 齋藤實』
  4. ^ a b c #M42公文備考16/伊吹製造の件(1)画像2-3、官房機密第165号「軍艦製造及建築費ヲ以テ来ル三十八年度ニ於テ製造着手スヘキ第一号装甲巡洋艦別紙図面製造方法書並ニ豫算書ニ基キ所属工廠ニ於テ製造セシムヘシ 明治三十八年一月三十一日 海軍大臣 呉鎮守府司令長官 備考 本艦製造費豫算ハ別紙明細表ノ通リ不足ヲ生スヘキニ付第二号装甲巡洋艦製造費ヨリ流用スルモノトス」
  5. ^ a b c #達大正1年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實|艦艇類別等級表|軍艦|巡洋戦艦| |筑波、生駒、鞍馬、伊吹|』
  6. ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
  7. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-230
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表
  9. ^ #M42公文備考16/伊吹製造の件(1)画像23、5月22日電報「伊吹二十二日午前八時起工セリ 呉鎮長官」
  10. ^ a b #M42公文備考16/伊吹製造の件(1)画像24-25、官房第4466号の3「明治四十年十一月二十一日 海軍大臣 侍従長アテ 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ軍艦伊吹本日午前九時三十分滞リナク進水相済ミ候條(以下略)」
  11. ^ a b c #M42公文備考16/伊吹製造の件(2)画像56、11月1日呉鎮長官からの電報「本日軍艦伊吹ヲ海軍工廠長ヨリ仝艦長ニ引渡シ済 右報告ス」
  12. ^ a b #達大正12年9月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  13. ^ a b c 在本邦英国大使館附武官との往復文書 大正14年:第439号 大正14年2月10日 帝国軍艦廃棄処分」 アジア歴史資料センター Ref.C11080414200 「廃棄艦作業結了公表案 大正十四年二月二十日 發布濟 海軍軍備制限ニ関スル條約ニ依ル帝国軍艦廃棄處分作業ハ別表ノ通リ二月九日全部完了セリ 廃葉処分ノ概要(表)艦名 処分ノ概要 …生駒 三菱長﨑造舩所ニ払下ケ 十三年十一月十三日 解体工事完了 伊吹 川﨑造舩所ニ拂下ケ 十三年十二月九日 同右…」
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m #日本近世造船史明治(1973)355-358頁。
  15. ^ a b #T3公文備考16/修理、改造(6)画像36-37、軍艦伊吹重量増減表(大正3年7月)
  16. ^ a b c d e 日本の戦艦(上)p.107
  17. ^ #日本近世造船史明治(1973)420頁。
  18. ^ #日本近世造船史明治(1973)434頁。
  19. ^ #日本近世造船史明治(1973)389頁。
  20. ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)下巻p.445
  21. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.499、明治40年11月21日内令第215号。|将校同相当官|33人|兵曹長同相当官、准士官|17人|下士|162人|卒|629人|
  22. ^ #M44公文備考73/魚形水雷教練発射及同成績表(4)画像11、魚雷教練発射成績表(44年の4)pp.
  23. ^ a b #M44公文備考73/魚形水雷教練発射及同成績表(2)画像35、呉鎮守府明治四十三年度水中発射機舷側昼間静的教練発射集合成績表 軍艦の部、同水中発射機艦首艦尾昼間静的教練発射集合成績表
  24. ^ T7公文備考23/役務及旗艦変更(5)画像8-24、大正7年11月29日伊吹機密第95号、砲台区分並分隊編成変更ノ件
  25. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.220
  26. ^ #M42公文備考16/伊吹製造の件(1)画像32、「先任局員殿|艤装方針-商議|○○ 一 四〇呎 小○|水雷艇 一 五六|汽艇 二 四二|カッター 四 三〇|伝馬 三 三〇 二/二〇 一|」
  27. ^ #T11公文備考35/配属(1)画像47-48
  28. ^ #M41達/10月画像26、明治41年10月28日達第129号、海軍無線電報取扱規約附表第1
  29. ^ #T1達/10月画像41、達第44号
  30. ^ #T1達/12月画像6,7、達第72号
  31. ^ a b #達明治40年11月p.14『達第百二十八號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ第一號装甲巡洋艦ヲ伊吹ト命名セラル 明治四十年十一月二十一日 海軍大臣男爵 齋藤實』
  32. ^ a b c d e f g h i 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ86(原本134頁)『伊吹(いぶき)
    艦種一等巡洋艦 二檣(信號用) 鞍馬と姉妹艦なり。
    艦名考山名に採る、伊吹山は近江・美濃の兩國に跨る、標高4,545尺。
    艦歴明治40年5月22日起工、同42年11月1日竣工、本艦は起工より僅かに6ヶ月にして進水し、更に其後2ヶ年にして竣工、全工程2ヶ年半にして完成、此の種大艦としては記録的のものなり。 大正元年8月巡洋戰艦に列す、同3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年8月特別南遣支隊に属し印度洋・濠州方面警備に任じ濠州・新西蘭軍隊輸送掩護を行ふ、獨逸掠奪艦「エムデン」の追跡時代に關係あり(艦長大佐加藤寛治)、同7年12月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐海老原敬一)、同12年9月20日除籍(華府海軍々備制限條約に由る)。
    ―要目― 長485呎/幅75.5呎/吃水26呎/排水量14,600噸/機關 カーチス式タルビン2基/馬力24,000/速力22/乗組人員817/船材 鋼/兵装 12吋4/8吋8/12听8/機關砲4/發射管3/起工 明治40-5-22/進水 同40-11-21/竣工 同42-11-1/建造所 呉工廠』
  33. ^ 帝国軍艦発達 1937, p. 2「(略)次に鞍馬、伊吹が出來ました。姉妹艦でありますが伊吹はタービンを装へ速力1 1/2節を増して22 1/2節であります。(以下略)」
  34. ^ a b c d e f g h i 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』pp.121-161。
  35. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 6「(略)次に更に攻撃力を増した鞍馬、伊吹(明治四十二年、四十四年竣工)が出來ました 此二艦は主砲として十二吋砲四門を有する外に八吋砲八門を備へ副砲として四.七吋砲十四門を有して居ります 其上に速力も筑波級に勝って居ります 其中でも伊吹は途中設計を變更し「タルビン」機械を採用しました結果速力は鞍馬よりも一節半早くなって居ります。(以下略)」
  36. ^ 海軍艦艇史2p.129、伊吹について
  37. ^ a b c d 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.2
  38. ^ a b #海軍艦艇史2p.210,No.2271の写真解説
  39. ^ a b c d #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像3、大正5年3月23日特務艦隊機密第1号
  40. ^ a b c #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像12、電報「特務艦隊司令官 相模、丹後、宗谷ノ三艦ハ四月四日正午各軍艦旗ヲ撤去シ右終テ彼我ノ間ニ無事授受ヲ了セリ(了)」
  41. ^ #海軍艦艇史2p.210,No.2272の写真解説
  42. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.445-446
  43. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.449
  44. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻p.446
  45. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.446-447
  46. ^ a b c d e f g #帝国海軍機関史(1975)下巻p.447
  47. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.447-448
  48. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.447-448
  49. ^ #日本海軍全艦艇史上巻p.52、No.0086の写真解説
  50. ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.450
  51. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.450-451
  52. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)『一、米國「カーチス・タルビン」採用―明治三十九年(一九〇六)呉にて建造の「伊吹」に之を装備す』
  53. ^ #M42公文備考16/伊吹製造の件(1)画像4、軍艦製造及建築費中第一号装甲巡洋艦製造豫算増減明細表
  54. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹』
  55. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(4)画像23、明治39年8月17日官房第3206号の2「軍艦伊吹ニ「スターン、ウォーク」取附方取計フヘシ」
  56. ^ #M39公文備考17/造修6止(4)画像40-41、明治39年11月19日起案、官房第4661号「訓令案 軍艦安藝、伊吹(呉) 薩摩、鞍馬(横)ニ炭油混焼装置設置方取計フヘシ 但シ工事方案等ニツイテハ海軍艦政本部長ト協議スヘシ 明治三十九年十一月十九日 大臣 呉鎮長官 横鎮長官(各二通)」
  57. ^ #M42公文備考16/伊吹製造の件(2)画像38-39、明治42年7月28日呉工第41号の87
  58. ^ #M42公文備考16/伊吹製造の件(2)画像40-41、明治42年9月2日呉工第41号の102
  59. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.22-23
  60. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.23、明治43年12月1日内令203
  61. ^ #M44公文備考35/軍艦派遣命令航路及行動(1)画像3、9月25日軍務機密第244号「軍艦伊吹特別任務ノ件」
  62. ^ #M44公文備考35/軍艦派遣命令航路及行動(1)画像8-9、9月25日官房機密第459号
  63. ^ #M44公文備考35/軍艦派遣命令航路及行動(1)画像17-18、明治44年9月26日官房機密第462号
  64. ^ #M44公文備考35/雑画像13、現在員(但下士以下ハ定員)44.10.19、伊吹「佐官同相当官8、尉官同相当官27、候補生(少尉、機関少尉-)21、兵曹長同相当官2、准士官14、下士162、卒631、傭人16、計881」。軍楽隊「兵曹長同相当官1、下士10、卒16、計27」
  65. ^ a b c d e f g h i j #M44公文備考35/報告(2)画像25、暹羅国航海表
  66. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像5-6、軍艦伊吹暹羅国航海記事、11月9日
  67. ^ a b #M44公文備考35/報告(2)画像6、軍艦伊吹暹羅国航海記事、11月11日
  68. ^ a b c d e f #M44公文備考35/報告(1)画像16、軍艦伊吹暹羅国派遣航海一覧表
  69. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像7、軍艦伊吹暹羅国航海記事、11月14日
  70. ^ #M44公文備考35/軍艦派遣命令航路及行動(2)画像6「博恭王殿下御乗艦遊サル香港ニ向ケ発 11月14日 佐世保 伊吹艦長」
  71. ^ a b c d e f g h i #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(1)画像23
  72. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像8-9、軍艦伊吹暹羅国航海記事、11月19日
  73. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像7、軍艦伊吹暹羅国航海記事、11月20日
  74. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像32、磐谷停泊日誌、11月27日
  75. ^ a b #M44公文備考35/報告(2)画像34-37、磐谷停泊日誌、11月28日
  76. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像38-40、磐谷停泊日誌、11月29日。同画像40-41、11月30日
  77. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像42-44、磐谷停泊日誌、12月1日
  78. ^ a b #M44公文備考35/報告(2)画像44-50、磐谷停泊日誌、12月2日から12月4日
  79. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像50-52、磐谷停泊日誌、12月5日
  80. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像52-53、磐谷停泊日誌、12月6日
  81. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像53-55、磐谷停泊日誌、12月7日
  82. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像56-58、磐谷停泊日誌、12月9日
  83. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像13、軍艦伊吹暹羅国航海記事、12月10日
  84. ^ a b #M44公文備考35/報告(2)画像18、軍艦伊吹暹羅国航海記事、12月19日
  85. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像19、軍艦伊吹暹羅国航海記事、12月20日、21日
  86. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像19、軍艦伊吹暹羅国航海記事、12月21日
  87. ^ #M44公文備考35/軍艦派遣命令航路及行動(3)画像20、電報「伊吹午後一時着 横須賀 第一艦隊司令長官」
  88. ^ #M44公文備考35/報告(2)画像23、軍艦伊吹暹羅国航海記事、12月28日
  89. ^ #M45-T1公文備考27/装備及換装(1)画像2-3、明治45年1月18日官房第123号「子砲装備ノ件 軍艦伊吹主砲塔上ニ三吋子砲装備方取計フヘシ 但シ所用豫算金弐千参百四拾壱円拾六銭六厘ハ軍事費造兵費ノ支弁トシ請求ヲ持テ配布ス又工事方案ニ関シテハ艦政本部長ヲシテ直接工廠長ニ通知セシム」
  90. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實』
  91. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56番『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)』
  92. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、大正元年12月1日内令78
  93. ^ #T2公文備考20/改造修理(2)画像3-4、大正2年2月12日官房第401号「軍艦伊吹「ビルジキール」改造ノ件 軍艦伊吹「ビルジキール」別紙図面ノ通リ改造セシメ其改造ノ前後ニ於テ本艦動揺状態ノ試験ヲ行ハシムヘシ 但シ詳細ニ関シテハ艦政本部長ヲシテ所属工廠ニ通知セシム 右訓令ス(別図壱葉添)(終)」
  94. ^ #T2公文備考20/改造修理(2)画像15-16、大正2年2月26日官房第542号
  95. ^ #T2公文備考20/改造修理(4)画像21-22、大正2年7月10日官房第1582号の2
  96. ^ #T2公文備考20/改造修理(4)画像26-27、大正2年7月31日官房第1585号の2
  97. ^ #T2公文備考20/改造修理(5)画像46-47、大正2年8月13日官房第2072号の2
  98. ^ #T3公文備考35/軍艦の部(1)画像7-10、主罐欠損発見報告ノ件
  99. ^ #T3公文備考35/軍艦の部(4)画像48
  100. ^ #T3公文備考19/旗艦及役務変更届(1)画像3、大正3年4月2日呉鎮艦隊第56号「本職本日伊吹ヘ乗艦将旗ヲ掲揚致候條 右報告ス」
  101. ^ #T3公文備考19/旗艦及役務変更届(1)画像4、大正3年4月19日呉鎮艦隊第58号「本職本日旗艦ヲ安藝ヘ変更移乗致候條(伊吹ヨリ) 右報告ス(終)」
  102. ^ #T3公文備考19/旗艦及役務変更届(2)画像3、大正3年8月10日呉鎮艦隊第110号「本日旗艦ヲ伊吹ニ変更将旗ヲ移シ候條 右報告ス(終)」
  103. ^ #T3公文備考19/旗艦及役務変更届(2)画像10、大正3年8月19日呉鎮艦隊第112号「本日旗艦ヲ浅間ニ変更将旗ヲ移シ候條 右報告ス(終)」
  104. ^ 南洋及日本人社 著、南洋及日本人社 編『南洋の五十年』章華社、1938年、217-218頁。NDLJP:1462610/138  
  105. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.26
  106. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.28、大正5年3月20日内令48
  107. ^ #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像5、電報「伊吹、相模、丹後、宗谷を率ヰ呉発 三月二十八日 特務艦隊司令官」
  108. ^ #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像7、電報「特務艦隊ヨリ電報取次グ 伊吹相模丹後宗須磨ヲ率ヒ正午全体無事浦塩着 四月三日 舞鎮長官」
  109. ^ #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像16-18、電報
  110. ^ #T5特務艦隊綴/特務艦隊綴画像14、電報「特務艦隊司令官 午後四時伊吹須磨ヲ率ヰ舞鶴ニ向ケ浦塩発(了)」
  111. ^ #T6公文備考20/修理(2)画像29-32、大正6年7月23日官房第2321号、軍艦伊吹修理及巡航タルビン新設ノ件
  112. ^ #T6公文備考20/修理(1)画像29-31、大正6年8月18日官房第860号の2
  113. ^ #T7公文備考22/変更画像15、大正7年6月17日官房第2192号「伊吹巡航タルビン新設工事ノ件 昨年七月官房第二三二一号ヲ以テ訓令セラレタル軍艦伊吹巡航タルビン新設工事ハ其ノ後鋭意進歩ヲ計リ居候処駆逐艦桑椿新造工事ノ為支障ヲ生ジ遅延致候ニ就テハ竣工豫定期日ヲ本年九月十五日ニ変更致度候ニ付御認許ヲ得度 右上申ス(終)」
  114. ^ #T7公文備考21/修理(1)画像20、大正7年8月3日電報
  115. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.30-31、大正7年12月1日内令388
  116. ^ #T8公文備考21/役務(2)画像25-28、大正8年8月29日憲警第628号
  117. ^ #T8公文備考21/役務(2)画像26-27、軍人上陸ノ状況
  118. ^ #T8公文備考21/役務(2)画像27-28、一般観覧者ノ状況
  119. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.34、大正9年9月20日内令338
  120. ^ a b #昭和天皇実録二巻643頁『(大正九年十一月)五日 金曜日 午前七時五十分、二条離宮御出門、京都駅を御発車になる。神戸駅にて下車され、人力車にて米利堅波止場にお成りになり、軍艦伊吹に御乗艦になる。第四戦隊司令官飯田久恒以下戦隊司令部関係者、伊吹艦長海老原啓一、球磨艦長青木董平以下両艦の佐官以上に謁を賜う。続いて列立の伊吹乗組士官に謁を賜う。御召艦は十一時三十五分、神戸港を出港し、午後六時十五分広島県鞆津沖に着し、仮泊する。航海中、艦内にて水兵による撃剣・相撲等を御覧になる。』
  121. ^ a b 大正9年11月8日官報第2481号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御出港竝御碇泊 皇太子殿下ハ本月五日午前七時五十分二條離宮御出門同八時十分京都驛御發車同九時五十分神戸驛御著車次テ神戸港ニ於テ御乗艦同十一時三十五分御出港午後六時十五分廣島縣鞆津港ヘ御著御假泊一昨六日午前八時三十分鞆津港御出港午後四時二十分別府港御入港御碇泊アラセラレタリ』
  122. ^ #昭和天皇実録二巻643頁『(大正九年十一月)六日 土曜日 早朝カッターに召され、仙酔島近傍まで巡航される。午前八時三十分、御召艦伊吹は出港する。航海中、東宮武官長奈良武次より、大演習(陸軍特別大演習)に関する言上をお聞きになる。午後四時二十分、別府港に入港する。(以下略)』
  123. ^ #昭和天皇実録二巻643-644頁『(大正九年十一月)七日 日曜日 午前八時四十五分御退艦、別府桟橋より御上陸になり、それより自動車にて血池地獄・海地獄・坊主地獄を巡られる。次に観海寺にお成りになり、天皇が東宮時代(明治四十年)に行啓された際の御休所跡において、大分県知事新妻駒五郎より言上をお聞きになる。(以下略)』
  124. ^ 大正9年11月9日官報第2482号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御安著 皇太子殿下ハ一昨七日午前九時別府港御上陸血池地獄、海地獄、坊主地獄、觀海寺御休跡、大分縣物産陳列場ヘ行啓午後二時十分別府驛御發車同四時中津驛御著車同四時十分御泊所大分縣立中津高等女學校ヘ御安著アラセラレタリ』
  125. ^ #昭和天皇実録二巻653-654頁『(大正九年十一月)十五日 月曜日(略)午後零時三十分、師団司令部を御出門、小倉駅を御発車になり、一時門司駅に御着車、門司鉄道桟橋より門司鉄道局所属の清見丸に乗船され、鉄道桟橋より下関に御上陸になる。それより自動車にて、一時四十分、安徳天皇阿弥陀寺陵に御到着、御参拝後、宮内事務官鹿児島虎雄より御陵に関する説明をお聞きになる。(略)三時四十分、同砲台(金刀比羅砲台)を出発され、鉄道桟橋より清見丸にお乗りになり、駆逐艦谷風に移乗される。五時二十五分、海軍部崎泊地において軍艦伊吹に御乗艦になり、艦内において福岡県知事安河内麻吉、山口県知事中川望、門司鉄道局長小平保蔵に謁を賜う。伊吹は午後八時三十分、広島県江田島へ向け出発する。(以下略)』
  126. ^ a b 大正9年11月17日官報第2489号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○東宮行啓竝御入港 皇太子殿下ハ一昨十五日午前七時五十五分御泊所大分縣立中津高等女學校御出門同八時中津驛御發車同九時二十分小倉驛御著車第十二師團司令部ヘ行啓次テ小倉練兵場ニ於テ御閲兵午後零時四十分小倉驛御發車同一時門司驛御著車下關市ヘ御立寄阿彌陀寺陵、官幣中社赤間宮御參拜ノ上下關要塞司令部、金比羅砲臺ヘ行啓同五時二十五分部崎ニ於テ軍艦伊吹ニ御乗艦同八時三十分御發艦昨十六日午前八時江田島灣ヘ御入港アラセラレタリ』
  127. ^ a b #昭和天皇実録二巻654-655頁『(大正九年十一月)十六日 火曜日(江田島御到着、海軍兵学校に行啓)
  128. ^ 大正9年11月18日官報第2490号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨十六日午前九時三十分御上陸海軍兵學校ヘ行啓各所御巡覽ノ上午後四時十五分御歸艦アラセラレタリ』
  129. ^ a b c #昭和天皇実録二巻655-656頁『(大正九年十一月)十七日 水曜日(江田島御到着)午前六時四十分、宣仁親王が御召艦伊吹に参艦につき御対面になる。ついで海軍兵学校校長鈴木貫太郎・皇子傅育官長松浦寅三郎に謁を賜う。七時十五分、宣仁親王の見送りを受けられつつ、軍艦伊吹を御退艦になり、軍艦球磨に移乗される。七時三十分、海軍兵学校生徒の奉送を受けられながら江田島湾を出航される。十時、球磨は愛媛県大三島の宮浦港に入港する。十一時、宮ノ浦村に御上陸になり、国幣大社大山祇神社に参拝される。それより同社の宝物を御覧になり、月桂樹のお手植えを行われる。御休息時に愛媛県知事馬渡俊雄・松山高等学校長由比質・大山祇神社宮司三島敦雄等に謁を賜い、歩兵第二十二日聯隊長鈴木新之丞・松山聯隊区司令官生駒幸秀より言上をお聞きになる。十一時十五分大山祇神社を御発になり、軍艦伊吹に帰艦され、正午宮ノ浦を御出港になる。それより御召艦は瀬戸内海を東へ進み、翌十八日には横須賀へ向け、和歌浦沖、潮岬、熊野灘、遠州灘、伊豆南端石廊沖、伊豆大島沖を通過する。』
  130. ^ 大正9年11月19日官報第2491号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○東宮御出港 皇太子殿下ハ一昨十七日午前七時三十分江田島灣御出港同十時大三島宮ノ浦御入港御上陸國幣大社大山祇神社御參拜ノ上御乗艦正午十二時御出港アラセラレタリ』
  131. ^ a b #昭和天皇実録二巻656頁『(大正九年十一月)十九日 金曜日(横須賀御入港)午前六時四十五分、御召艦伊吹は横須賀に入港する。九時二十分退艦、逸見埠頭より上陸され、横須賀駅において第二艦隊司令長官博恭王と御対面、内大臣松方正義に謁を賜う。九時三十五分、横須賀駅を御発車になり、十一時十分東京駅に御着車、直ちに御参内になり、復命される。ついで皇后に御拝顔になり、正午宮城を御出門、東宮御所に還啓される。』
  132. ^ a b 大正9年11月20日官報第2492号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮還御 皇太子殿下ハ昨十九日午前六時四十五分橫須賀軍港御入港同九時三十分御上陸同九時三十五分橫須賀驛御發車同十一時十分東京驛御著車直ニ御參內午後零時二十五分還御アラセラレタリ』
  133. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.34、大正9年12月1日内令462
  134. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.35-39
  135. ^ #T10公文備考巻28/役務(2)画像45-48、大正10年6月23日官房機密第395号の2「軍艦戦闘射撃曳的艦ニ関スル件」
  136. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄內「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄內「三笠、肥前」ヲ削除ス』
  137. ^ 達明治39年11月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄內「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄內「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄內「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  138. ^ #T12公文備考22/廃棄艦解体陸揚作業画像6
  139. ^ #T12公文備考22/廃棄艦解体陸揚作業画像10
  140. ^ #T12公文備考22/廃棄艦解体陸揚作業画像8
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  142. ^ #T13公文備考25/廃棄艦解体作業1画像13-14
  143. ^ #T13公文備考25/廃棄艦解体作業1画像8
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参考文献 編集

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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2 
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
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  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 *福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 官報

関連項目 編集