伊奈 忠盈(いな ただみつ、安永5年(1776年) - 文政6年(1823年11月)は、江戸時代後期の旗本伊奈忠治の三男伊奈忠重の子孫、伊奈忠利の長男。母は渥美友将の娘。通称、小三郎、半左衛門。妻は大久保教近の娘。

寛政4年(1792年)3月9日、伊奈家当主の伊奈忠尊は勤務中の不行跡、家中不取締りの罪で改易された。忠尊の義弟の伊奈忠善も連座となっていたが、享和3年(1803年)に許されたもののほどなくして没した。これにより、伊奈本家は後継がいなくなった。

幕府は伊奈家歴代の功績を考え、伊奈氏分家の忠盈(当時17歳)に新知として武蔵国秩父郡および常陸国信太郡内1000石を与えて名跡を継がせ旗本に列し、小普請とした。

その後、書院番を経て文政6年(1823年)6月6日に代官となる。同年9月30日に致仕し、11月に48歳で死去した[1]

脚注 編集

  1. ^ 『徳川幕府全代官人名辞典』(東京堂出版、2015年)p.60