伊東 寿恵男(いとう すえお、1912年 - 2005年)は、日本映画監督

長崎県諫早市出身。大学卒業後、東宝文化映画部に入社し、文化映画を監督。泰緬鉄道の記録映画[1]や広島・長崎の原爆記録映画を監督。戦後は、児童劇映画の名作といわれる『空気の無くなる日』(文部省選定)を監督した。伊東壽惠男の表記もある。本名は「井上寿恵男」。詩人の伊東静雄は兄[1]

経歴 編集

  • 1939年10月、東宝文化映画部で『山と戦う』(撮影=玉井正夫、柳恵蔵)を監督。
  • 1940年2月、東宝文化映画部で『登高三千米』(撮影=玉井正夫、柳恵蔵)同年5月、『医者のいない村』(撮影=白井茂)、同年11月、『天気予報』(撮影=白井茂)を監督[2]
  • 1941年、社団法人日本ニュース社が東宝文化映画部を他の文化映画製作各社とともに吸収。社団法人日本映画社へ改組したため、同社に移籍。同年11月、『働く少年少女』(撮影=瀬川順一)を監督。泰緬鉄道建設の記録映画を製作[2]
  • 1945年9月7日、日本映画社から長崎県出身者として、単独で、原爆投下後の広島・長崎へ向けて派遣される。広島県庁を訪れ、近々製作スタッフの一行が広島にやってくることを伝達した[3]。加納竜一製作、相原秀次企画調査による「広島・長崎における原子爆弾の効果」(山中真男、三木茂、鈴木喜代治、俣野公男、坂齋小一郎、藤波次郎、今野敬一撮影)の演出を、小畑長蔵、奥山大六郎、山中真男、相原秀二とともに担当した。20日間のロケーション。
  • 1946年、「広島・長崎における原子爆弾の効果」(Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki 広島長崎における原子爆弾の影響)完成。米軍の没収を避けるため、フィルムの一部を秘匿することになり、秘匿分の選択を行う[4]
  • 1947年、柳沢寿男とともに北海道美唄炭鉱に長期ロケした『炭坑』(加納竜一製作、33分)を監督。
  • 1949年、『空気の無くなる日』を監督。
  • 1994年、『映画への思い出』出版[1]

出典 編集