伍驥(ご き、1416年 - 1465年)は、明代官僚軍人は徳良、またの字は体純[1]本貫吉安府安福県

生涯 編集

1454年景泰5年)、進士に及第した。監察御史に任じられた。

1463年天順7年)、伍驥は巡按福建を命じられた。先立って上杭県で反乱が起こり、都指揮僉事の丁泉が善戦して、反乱軍の城攻めを全て撃退していた。まもなく反乱軍が転進しようとしたため、伍驥は汀州に駆けつけ、単騎で反乱軍の塁を訪れた。反乱軍は唐突に現れた御史に対して、武装して刃を露にした。伍驥は落ちついた態度で利害を説いたので、反乱側から1700戸あまりが帰順した。伍驥は帰順した者に牛を供与し、生業にもどさせた。

反乱軍の首領の李宗政が服従しなかったため、伍驥は丁泉とともに深入りして李宗政の軍を攻撃した。丁泉は奮戦したが、反乱軍に殺害された。伍驥は死者を弔い、負傷者を労うと、反乱軍と再戦して、18の寨を連破し、800人あまりを捕斬し、反乱を鎮圧した。伍驥は風土病にかかり、凱旋すると上杭県で死去した。1475年成化11年)[2]知県の蕭宏の請願により、伍驥と丁泉を祀る褒忠祠が上杭県に建てられた。

子に伍希閔(字は仲孝)があった[3]

脚注 編集

  1. ^ 張廷玉『御定資治通鑑綱目三編』巻14
  2. ^ 談遷国榷』巻37
  3. ^ 万表『皇明経済文録』巻21

参考文献 編集

  • 明史』巻165 列伝第53