佐々木広綱

平安時代末期〜鎌倉時代前期の武将

佐々木 広綱(ささき ひろつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将近江源氏佐々木定綱の嫡男。

 
佐々木広綱
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不詳
死没 承久3年7月2日1221年7月22日
別名 太郎(佐々木小太郎[1]
官位 従五位下左兵衛尉左衛門尉山城
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 近江源氏佐々木氏
父母 父:佐々木定綱、母:宇都宮朝綱の娘[2]?
兄弟 広綱定重定高信綱行綱
大江広元の娘[2]?
継綱為綱親綱勢多伽丸
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実名)は旧字体で「廣綱」とも書き、その「広」(「廣」)の字は大江広元から偏諱を受けたものとされる[2]

在京の御家人として鎌倉幕府に仕えるが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め西面武士となる。承久の乱で官軍に属して戦い、敗れ梟首された。

生涯 編集

父定綱は源頼朝伊豆の流人の頃から仕え、近江長門石見隠岐四ヶ国の守護を務めており、広綱はその嫡男として早くに左兵衛尉に任じられた。

建久2年(1191年)、佐々木庄の年貢を巡る延暦寺との争いにより一門は流罪とされ、5月8日、広綱は隠岐国に流される。

建久4年(1193年)3月12日、後白河法皇の一周忌により罪を許される。

正治2年(1200年)、梶原景時が排斥されると、2月20日、左衛門尉を務める広綱は、京五条坊門面の景時邸に在る郎従を追捕する。3月、京で殺人事件が起こり騒ぎになると、4月7日、鎌倉飛脚で子細を伝える。翌正治3年(1201年)には弟の信綱とともに柏原弥三郎を討伐する[1]

建仁3年(1203年)10月8日、源実朝元服の儀に御家人百余名と共に参列し、鎧剣馬を奉ずる役を千葉常秀と共に務める。19日、使節として上洛し京畿の御家人に将軍への忠誠を誓わせる。

 
四目結

建仁4年(1204年)1月21日、延暦寺の僧の事で朝廷に召される。4月13日、正五位下に叙される。

元久2年1205年)閏7月26日、牧氏事件で京に在る平賀朝雅を討つ。この功で後鳥羽天皇より寄せかけの紋を賜り、家紋を四目結とした。

建暦2年1212年)3月20日、在京奉行の功により一村の地頭職[2]を拝領する。

建暦3年1213年)5月3日、和田合戦に敗れ西海へ落ち延びる和田義盛一族を討ち取るべき旨、北条義時より書状を送られる。京では北条義時父子と大江広元の死が風聞しており、15日、戦場を見た飛脚を伴って参院し状況を報ずる。更に鎌倉への下向を考えるが、3日の書状が届いた事により、京に留まり院の守りを続けた。

建保4年(1216年)4月28日、一条河原において東寺の盗賊ら五十余人を検非違使より渡される。盗賊らは鎌倉に送り、後に陸奥国に流された。

建保6年(1218年)9月21日、延暦寺の僧らが京で強訴し、勅定により宮門でそれを防ぐ。10月19日、仲恭天皇の降誕と源実朝右大臣任官を飛脚で鎌倉に知らせる。

承久3年(1221年)5月15日、承久の乱が始まる。広綱は西面武士として官軍に属し、京極高辻の館に住む伊賀光季らを滅ぼし、その館を賜る。館は後に京極氏の家名となる。同日、北条義時追討の宣旨が発せられた。

5月22日、鎌倉方は北条泰時を大将とした軍を発し、弟の佐々木信綱はそれに属した。

6月3日卯の刻、関東方を迎え討つべく京を発する。4日、尾張国尾張川に至り、大手の将軍として藤原秀康小野盛綱三浦胤義らと共に一万余騎を率い摩免戸を守る。5日、鎌倉方と戦うが、官軍は他と合わせて二万余で敵の半数にも満たず、敗れ帰洛する。12日、軍を率い宇治を守る。14日、宇治川の戦いで敗れ逃れる。7月2日、捕らえられていた広綱は梟首された。

嫡男継綱は6月14日に戦死し、次男為綱と三男親綱の行方は判らない。四男の勢多伽丸は7月11日に捕らえられ、11歳(※承久記によると14歳)とまだ幼い事から助命されるが、弟の信綱に身柄を奪われ斬首された。佐々木氏は後に信綱が継ぐ事となる。

年表 編集

  • 年月日は出典が用いる暦であり、西暦は元日をそれに変更している。
和暦 西暦 月日 内容 出典
建久2年 1191年 5月8日 隠岐国に流される 吾妻鏡
建久4年 1193年 3月12日 赦免 吾妻鏡
正治2年 1200年 2月20日 梶原景時の郎従を追捕 吾妻鏡
建仁3年 1203年 10月8日 源実朝元服に参列 吾妻鏡
建仁4年 1204年 4月13日 正五位下 明月記
元久2年 1205年 閏7月26日 牧氏事件 吾妻鏡、明月記、西讃府史
建暦3年 1213年 5月 和田合戦 明月記、吾妻鏡
承久3年 1221年 5月 承久の乱 承久記、吾妻鏡、西讃府史
7月2日 梟首 吾妻鏡

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「佐々木広綱」の項(執筆:佐々木文昭)より。
  2. ^ a b c d 広綱が高島郡横山郷地頭職を大江広元から譲られたことが「地蔵院文書」から窺える。『佐々木六角氏の系譜』(思文閣出版、2006年)の著者である佐々木哲によれば、この継承は佐々木広綱が大江広元の娘婿であったからであり、この関係から「広」の字は広綱の元服時の烏帽子親であった広元から与えられたものだとしている。佐々木哲学校 - 山城守広綱(ブログ、2005年5月16日)、佐々木哲学校 - 横山氏の系譜―高島七頭(3)(ブログ、2011年2月7日)より。

関連項目 編集

先代
佐々木定綱
近江佐々木氏歴代当主
佐々木広綱
次代
佐々木信綱