佐藤洞潭(さとう どうたん、1842年天保13年) - 1900年(明治33年)6月9日は、幕末仙台藩士である。維新後、猊鼻渓の開拓に息子の佐藤猊巌(さとうげいがん)、佐藤東華(さとう とうか)と取り組んだ。

さとう どうたん

佐藤洞潭
生誕 佐藤謙治
天保13年(1842年)
興田村石那坂・佐藤利蔵の次男として生まれる
死没 明治33年(1900年)6月9日
墓地 安養寺(あんようじ) 岩手県一関市東山町長坂東本町164番地
記念碑 安養寺の佐藤家墓地に洞潭・猊巌共同の碑がある
国籍 日本の旗 日本
職業 岩手県・長坂郵便局長(明治13年~明治33年6月)
子供 猊巌(衡)・東華(敬吉)
徳五郎孝衡(佐藤利蔵)
親戚 兵三郎重衡
テンプレートを表示

幕末の京都訪問 編集

1867年(慶應3年)に、仙台藩の立会人(オブザーバー)として幕末の京都を訪問した。[要出典]鳥羽・伏見の戦いを実見した。[要出典]仙台藩は官軍との、直接戦闘に参加したという記録は無く、(危険が迫った時は京都・大原に避難している。)洞潭は無事、一関市東山町長坂に生還している。[要出典] 東山町長坂の猊巌の生家には、その時に使った、陣笠、刀、鉄砲が保存されていた。[要出典]その当時の京都(洛中・洛外)の様子を息子の猊巌に詳しく話している。[要出典]

猊鼻渓の観光地としての開拓に努め、東の耶馬渓とうたわれるまでに発展させた。[要出典]東山町長坂の郵便局長を勤め、1900年(明治33年)6月9日に死去した。[要出典]享年58。

参考文献 編集

関連項目 編集