保土ヶ谷カトリック教会

横浜市保土ケ谷区にある教会

保土ヶ谷カトリック教会(保土ヶ谷「被昇天の聖母マリア」教会)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区霞台にあるカトリックの教会。鐘楼のないロマネスク様式の聖堂を持つ[注釈 1]

保土ヶ谷カトリック教会

沿革 編集

増加する横浜地域の日本人信徒に対応するため、あらたに横浜教区が東京教区より分離され、それまで東京を担当していたフランスパリ外国宣教会が、新設横浜教区を担当することとなった。横浜教区は、旧東京教区の大半よりなっていた[1]1937年昭和12年)11月9日、初代教区長に就任したシャンボン神父の許に、1938年(昭和13年)2月20日横浜教区副司教に就任したばかりのフランス・グビナン出身のシェレル神父[注釈 2]を始めとしたパリ外国宣教会に所属する宣教師たちにより建設された。同年7月司祭館竣工。建物の設計者はチェコ出身の建築家ヤン・ヨセフ・スワガーである。台風による建設地の地すべりなど教会建設にあたって多々あった障害を乗り越え、シェレル神父は建設を続け、私財のすべてを投じさらに神田教会の信徒からの寄付、母国フランスからの協力などの資金に支えられて、聖堂がぶどう畑のただ中に完成した。シェレル神父が初代司祭となった。

戦時中は、外国人宣教師は転地・抑留を余儀なくされ、山手司教座教会が海軍の宿舎として使用されるようになった。保土ヶ谷教会はこの期間司教館として使用された。その間、終戦直後の1945年(昭和20年)8月18日横浜教区長ラウレンス戸田帯刀神父が、本教会司祭館内で殺害されているのが発見される事件が起きた。

第3代司祭日野久義神父[注釈 3][注釈 4](在任:1951年(昭和26年)~1969年(昭和44年)) より日本人司祭が司牧する教会となった。保土ヶ谷地区は京浜地区の住宅地として急速に人口が増え、 これに比例して教会の信徒数も増加した。 終戦後100人程度であった信徒数は60年代半ばには300人を超え、 毎年20名を超える人が洗礼を受けるようになっていった。 第6代司祭松村英顕神父[注釈 5](在任:1976年(昭和51年)~1986年(昭和61年))の時代には信徒数が600人を超えた。 1988年(昭和63年)7月、保土ヶ谷教会は50周年を迎え、記念事業として、聖母マリアの像が正面に建てられた。また、壮年会、婦人会および青年会などによる活動に加えて、専門的なボランティア活動を進める信徒たちは、各々固有のボランティアサークルを組織し、サークルの活動範囲は、身体障害者支援、薬物・アルコール依存症者支援、国際教育支援、老人給食支援、母子家庭支援など多岐にわたるに至った。1995年(平成7年)ホールや会議室を持つ多目的の信徒会館が完成。[2]

教会の映像を持つ作品 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1939年(昭和14年)6月竣工。
  2. ^ ジャン・フェリックス・マリー・シェレル神父 Jean Félix Marie Cherel 1868年7月9日フランスブルターニュ地方グビナンにて誕生。1889年9月パリ外国宣教会に入会し神学校入学。1892年9月23歳で司祭に叙階、直ちに宣教師として日本に派遣された。1894年明治27年)金沢教会助任司祭就任。千葉県下においてカトリック伝道に従事したのち、名古屋に転任となり名古屋教会主任として1904年(明治37年)主税町教会を設立した。1905年(明治38年)9月、神田教会主任に就任。1913年(大正2年)2月20日火災により同教会焼失。1915年(大正4年)同教会再建。1923年(大正12年)関東大震災により同教会倒壊。1928年(昭和3年)同教会再建。当時30万円を要した。1938年(昭和13年)1月、保土ヶ谷教会に転属し、同年2月20日横浜司教区副司教就任。同年7月保土ヶ谷教会司祭館が竣工した。1939年(昭和14年)6月同教会聖堂竣工。1947年(昭和22年)3月引退し、清瀬町「ベツレヘムの園」に移り、翌年1948年(昭和23年)3月21日死去。府中カトリック墓地に埋葬。
  3. ^ 日野久義神父(1910年(明治43年)5月1日-1989年(平成元年)4月28日)1940年(昭和15年)3月14日司祭叙階。1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)3月山手教会主任司祭。同年11月から1944年(昭和19年)10月山手教会主任司祭。1945年(昭和20年)4月から1950年(昭和25年)まで小田原教会主任司祭。同年1月15日から同年3月4日まで横浜市湘南教会主任司祭。1951年(昭和26年)、第2代司祭ウタン神父10月5日死去に伴い、後継として保土ヶ谷教会主任司祭に就任。1969年(昭和44年)6月8日開催された第1回横浜教区宣教代表者会議における宣言文の事前検討集団の中心となった。
  4. ^ マルセル・ウタン神父 Marcel Houtin 1891年フランスにて誕生。パリ外国宣教会に入会。1920年(大正9年)宣教師として日本に派遣された。文筆家かつ名説教家として東京本郷教会、静岡城内教会(のちの静岡教会)において布教。しかし城内教会に在籍中1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦の日に警察に連行される。検束留置の間は、横浜山手聖心教会主任の日野神父が城内教会地域の巡回司牧に当たった。戦後、静岡教会は司祭館が戦火による焼失を免れていたため、その一部を聖堂として1947年(昭和22年)6月仮聖堂建立まで使用。その前の同年3月に横浜保土ヶ谷教会に転属。既に沈黙の人物と化していた。1951年(昭和26年)10月5日死去。府中カトリック墓地に埋葬。『横浜教区設立50周年記念誌』同誌編集委員会編、カトリック横浜司教区、1988年
  5. ^ 松村英顕神父(1934年(昭和9年)8月14日-2007年(平成19年)4月27日)1970年(昭和45年)7月18日司祭叙階。1971年(昭和46年)から1976年(昭和51年)まで山手教会助任司祭。同年から引き続き1986年(昭和61年)まで保土ヶ谷教会主任司祭。同年から1989年(平成元年)まで新子安教会主任司祭。

出典 編集

  1. ^ 『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、p.219
  2. ^ 保土ヶ谷カトリック教会の沿革 保土ヶ谷カトリック教会

外部リンク 編集