六角広治

日本の江戸時代前期~中期の武士。江戸幕府旗本六角広賢長男で、高家旗本六角氏2代当主。従五位下侍従・越前守・木工権頭

六角 広治(ろっかく ひろはる)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本高家六角家2代当主。

 
六角広治
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保元年(1644年
死没 享保4年5月3日1719年6月20日
別名 通称:孫九郎、頼母
官位 従五位下侍従越前守木工権頭
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家綱綱吉
氏族 六角家
父母 父:六角広賢
母:本庄氏[1]
兄弟 広治本庄道高
正室:本庄宗資[2]
広豊ら1男3女
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略歴 編集

正保元年(1644年)、六角広賢の長男として誕生した。父・広賢の死後、母方の祖父・本庄道芳に養育される。

延宝3年(1675年)7月28日、守澄法親王の推挙により4代将軍・徳川家綱御目見する。翌延宝4年(1676年)5月10日、小姓組に加えられて蔵米200俵を与えられる。元禄2年(1689年)閏1月26日、高家職に就き、下野国足利郡内で1000石を与えられる。同年2月28日、従五位下侍従・越前守に叙任する。

元禄9年(1696年)7月10日、不行跡により高家を解任の上、逼塞を命じられる。さらに元禄10年(1697年)4月23日、蟄居隠居を命じられる。家督は長男の広豊が継いだ。

広治について、遊郭吉原で喧嘩騒ぎがあった際、直接関係していないものの出入り差し止め[3]に遭遇し、同所に閉じ込められてしまったため(時の将軍に近い親族、または高家旗本として)、武家にあるまじき失態を晒してしまった、などの話を確認できる。宝永6年(1709年)10月25日、蟄居を解かれる。

享保4年5月3日1719年6月20日)、死去。享年66。

脚注 編集

  1. ^ 桂昌院の弟系
  2. ^ 桂昌院の兄系
  3. ^ 騒動の拡大・犯人逃走などを防ぐため、吉原の入り口の門を閉じ区画を完全閉鎖すること。

関連項目 編集

先代
六角広賢
高家六角家2代当主
1658年 - 1697年
次代
六角広豊