出雲屋麻呂
出雲 屋麻呂(いずも の やまろ、生没年不詳)は、奈良時代中期の官人。名は屋満[1]・屋万里[2]とも記される。姓は無姓のち臣。官位は外従五位上・紫微少忠。
経歴 編集
聖武朝の天平9年(737年)4月、皇后宮職少属・従八位下と現れている[3]。同11年(739年)5月、写経司解に自署を加えている[4][5]、同月、「少属屋満」と記されており、北殿に出仕している'[1]。同年7月、従七位上少属とあり、同16年(744年)7月にも従七位上・少属とある[6]。
天平18年(746年)正六位下から外従五位下に昇進する。この時「出雲臣屋麻呂」と記されているが、臣姓を賜与されたのは、翌19年(747年)6月のことで、この時、同時に茨田弓束・茨田枚野が宿禰姓を授けられている。同年8月には、東大寺写経所に観世音経の写経を宣し[7]、同年10月にはその宣により、大般若経を写経させている[8][9]。
孝謙朝の天平勝宝元年(749年)、外従五位上に昇叙し、皇后宮職が紫微中台に改編されると、中臣丸張弓・吉田兄人・葛木戸主とともに紫微少忠となり、引き続き光明皇太后に仕えている。翌2年(750年)正月にも少忠と見える[2][10][11]。
官歴 編集
注記のないものは『続日本紀』による。