劉 儁(りゅう しゅん、生年不詳 - 1408年)は、明代官僚は子士。本貫荊州府江陵県

生涯 編集

1385年洪武18年)、進士に及第した。兵部主事に任じられ、兵部郎中に進んだ。1395年(洪武28年)、兵部右侍郎に抜擢された。1398年(洪武31年)、兵部左侍郎となった[1]建文年間、侍中となった。1402年(建文4年)、永楽帝が即位すると、劉儁は兵部尚書に進んだ。1406年永楽4年)、永楽帝がベトナム胡朝に対する遠征軍を派遣すると、劉儁は遠征軍の軍務に参与した。1407年(永楽5年)、帰国すると厚い賞与を受けた。ほどなく陳頠がベトナムで反乱を起こすと、劉儁は沐晟率いる討伐軍の軍務に参与した。1408年(永楽6年)冬、沐晟が陳頠と生厥江で戦って敗れた。劉儁は大安海口まで退却して、暴風に遭い、敵に包囲され、自ら縊死した。1425年洪熙元年)3月、太子少傅の位を追贈された。は節愍といった。

子の劉奎は給事中となった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻12

参考文献 編集

  • 明史』巻154 列伝第42