劉 斌(りゅう ひん、1198年 - 1259年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。済南府歴城県の出身。

概要 編集

幼くして父を亡くしたことで祖父に育てられた人物であった。勇敢なことで知られ、金末の混乱期に張栄が済南を拠点に軍閥を築くとこれに従い[1]、管軍千戸の地位を授けられた。1232年壬辰)に河南方面に進出すると功績により中翼都統の地位を授けられた。睢陽軍を攻めた時には、配下を率いて夜襲し敵将を捕虜とする功績を挙げた。この後、張栄はアジュルに対して太康平定の功労者は劉斌であると語ったという[2]

その後襄陽に駐屯したが食糧が乏しくなり、青陵から食糧を奪うことを計画した。配下の者達は大沢に守られた青陵を攻めるのは難しいと反対したが、劉斌は大沢に守られているからこそ油断するのだと述べ、百騎を率いて夜襲を実行した。沢の中を50里余り進み、敵兵と遭遇すると馬を棄てて突撃し敵軍を破り、食糧を奪取することに成功した。また、六安攻めにも功績を残している[3]

1243年癸卯)には済南推官とされ、1251年辛亥)には本道左副元帥とされた。1255年乙卯)には済南新旧軍万戸とされて邳州に移り、南宋の将から恐れられたという。1259年己未)に病となり、息子たちに遺言を伝え終わると同時に62歳にして亡くなった[4]。息子には劉思敬がいる。

脚注 編集

  1. ^ 愛宕1988,192頁
  2. ^ 『元史』巻152列伝39劉斌伝,「劉斌、済南歴城県人。少孤、鞠于大父。有勇力、従済南張栄起兵、為管軍千戸。歳壬辰、攻河南、以功授中翼都統。攻睢陽軍、軍杏堆、距陳州七十里、聞陳整軍於近郊、斌率衆夜破之。又撃走太康守兵、擒其将、三日、太康陥。栄言於帥阿朮魯曰『太康之平、摧其鋒者、斌也』」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39劉斌伝,「移屯襄陽、軍乏食、斌知青陵多積穀、前阻大沢、水深不可渉、陳可取状。衆難之。斌叱之曰『彼恃険、不我虞、取可必也』。乃率百騎夜発、獲敵人、使道之前、行汚沢中五十餘里、遇敵兵、斌捨馬揮槊突敵、敗之、得其糧数千斛。遷官知中外諸軍事、従攻六安、先登、破其城」
  4. ^ 『元史』巻152列伝39劉斌伝,「癸卯、擢済南推官。辛亥、授本道左副元帥。乙卯、陞済南新旧軍万戸、移鎮邳州、宋将憚之。己未、病、謂其子曰『居官當廉正自守、毋黷貨以喪身敗家』。語畢而逝、年六十有二。贈中奉大夫・参知政事・護軍・彭城郡公、諡武荘。子思敬」

参考文献 編集

  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 元史』巻152列伝39劉斌伝