劉 栄(りゅう えい、1360年 - 1420年)は、明代軍人本貫邳州宿遷県

生涯 編集

劉江と張氏のあいだの子として生まれた。父と同名の江を名乗った。栄と改名したのは、その死の前年の1419年のことだが、当記事では混乱を避けるため、以下は劉栄と呼称する。劉栄は魏国公徐達に従って灰山・黒松林で戦った。総旗となり、燕王邸の給事をつとめた。体格雄偉で智略多く、燕王朱棣に重用され、密雲衛百戸の位を受けた。1399年建文元年)、靖難の変が起こると、劉栄は燕王朱棣の起兵に従い、先鋒をつとめて、たびたび戦功を立てた。1400年(建文2年)、山東で転戦し、朱栄とともに騎兵3000を率いて、南軍を滑口で夜襲し、数千人を斬り、馬3000頭を鹵獲し、都指揮の唐礼らを捕らえた。都指揮僉事に任じられた。1401年(建文3年)、滹沱河の戦いで浮橋を奪い、館陶曹州で略奪をおこなった。軍を返して北平を救援し、平安の軍を平村で破った。楊文が遼東の兵を率いて永平を包囲した。劉栄が永平の救援に赴くと、楊文は撤退した。劉栄は北平に帰ると言いふらして20里あまり進み、鎧をたたんで夜間に永平に入った。楊文は劉栄が去ったと聞いて、再び永平を攻撃した。劉栄は出撃して、楊文の軍を破った。数千人を斬首し、指揮の王雄ら71人を捕らえた。都指揮使に転じた。1402年(建文4年)、淝河にいたって、白義や王真とともに軽装の騎兵で平安を誘い出し、これを破った。

ときに南軍が宿州に駐屯して、食糧を備蓄して持久策を取っていた。燕王朱棣はこれを懸念して、その糧道を絶とうと図った。劉栄は3000人を率いて赴くよう命を受けたが、ためらって行かなかった。朱棣は激怒して劉栄を斬ろうとしたが、諸将が叩頭して助命を請願したため、赦された。燕軍が長江を渡る作戦において劉栄に功績があったが、以前の罪により都督僉事に任じられるにとどまった。1403年永楽元年)、都督同知となった。1408年(永楽6年)、中府右都督に進んだ。

1410年(永楽8年)、劉栄は永楽帝(朱棣)の第一次漠北遠征に従い、遊撃将軍として前哨を率いた。夜に乗じて清水源に拠り、オノン川の敵を破った。さらにアルクタイを靖虜鎮で破った。永楽帝が軍を返すと、劉栄は殿軍をつとめた。軍中で左都督に進み、遼東に派遣されて駐屯した。敵が乱入して明軍を殺害する事件が起こり、劉栄は永楽帝の怒りを受けて斬刑を命じられたが、しばらくして許された。1411年(永楽9年)、再び遼東に駐屯した。1414年(永楽12年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、先鋒をつとめ、勁騎を率いて飲馬河で敵を偵察した。6月、オイラトの騎兵が東に逃げるのを見て、康哈里孩まで追撃し、数十人を斬った。明軍の本隊と合流してマフムードを忽失温で攻撃すると、馬を下りて刀剣で敵陣に突入し、多くを捕斬し、永楽帝に賞を受けた。9月、総兵官となり、遼東に駐屯した。

倭寇が海上に跋扈し、北は遼東から南は浙江福建にいたるまで、沿海の州県で多くの被害を出していた。劉栄は形勢を考量して、金線島の西北の望海堝に城堡を築き、烽火を設け、兵に厳戒態勢を布いて待ち受けるよう請願した。1419年(永楽17年)6月、観測者が東南海島中に烽火が上がったのを報告した。劉栄は急遽兵を率いて望海堝に赴いた。倭寇は三十数隻の舟でやってきて、馬雄島に宿営し、岸に登って望海堝に駆け込もうとした。劉栄は山に伏兵を設け、別に将を派遣してその帰路を遮断させた。歩兵に迎え戦わせ、偽って退却させた。倭寇が伏兵の中に入ると、砲火を挙げて伏兵が起ちあがり、朝から夕方まで戦って倭寇を破った。倭寇が桜桃園の空堡の中に逃げこもうとすると、劉栄はあえて西壁を開いて逃げこませた。両路に分かれて挟撃し、完全に包囲して、1000人あまりを斬首し、130人を生け捕りにした。これにより倭寇は大打撃を受け、再び遼東に侵入しようとしなくなった。9月、劉栄は広寧伯に封じられ、世券を与えられ、改名した。ほどなく遼東に帰った。1420年(永楽18年)4月辛丑、死去した。享年は61。広寧侯の位を追贈された。は忠武といった。

子女 編集

  • 劉湍(広寧伯の爵位を嗣いだ)
  • 劉淮(早逝した)
  • 劉安(兄の劉湍の死後、広寧伯の爵位を嗣いだ)
  • 劉麟

参考文献 編集

  • 明史』巻155 列伝第43
  • 故奉天翊衛宣力武臣特進栄禄大夫柱国広寧伯追封広寧侯諡忠武劉公神道碑銘(楊栄『文敏集』巻17所収)