勇利アルバチャコフ

ロシアの元プロボクサー

勇利 アルバチャコフ(ゆうり - 、本名:ユーリ・ヤコヴレヴィチ・アルバチャコフЮрий Яковлевич Арбачаков、Yuri Yakovlevich Arbachakov)、1966年10月22日 - )は、旧ソ連ロシア共和国ケメロヴォ州タシュタゴル出身のアジア系ロシア人(民族名、テュルク系ショル人)のプロボクサー経験者及びプロボクシング・トレーナー経験者。協栄ボクシングジム所属。元WBC世界フライ級王者で、9度の防衛に成功。これは日本のジムに所属する世界同級王者として過去最多の連続防衛記録である。

勇利アルバチャコフ
基本情報
本名 アルバチャコフ・ユーリ・ヤコプレヴィチ
通称 ロシアン・ヒットマン[1]
階級 フライ級
身長 163cm
国籍 ロシアの旗 ロシア
誕生日 (1966-10-22) 1966年10月22日(57歳)
出身地 ケメロヴォ州・キゼス村
スタイル 右ボクサーファイター
プロボクシング戦績
総試合数 24
勝ち 23
KO勝ち 16
敗け 1
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獲得メダル
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
男子 ボクシング
世界ボクシング選手権
1989 モスクワ フライ級
ヨーロッパボクシング選手権
1989 アテネ フライ級

来歴 編集

元アマチュアボクシングの世界王者で、ペレストロイカ政策の折、スラフ・ヤノフスキーオルズベック・ナザロフらと共に日本の協栄ボクシングジムに入門。来日の橋渡し役は、アントニオ猪木であった。

1990年2月1日、「チャコフ・ユーリ」というリングネームバンタム級でプロデビュー。ヘビー級などの重量級の選手に注目が集まり、来日当初はさしたる注目を浴びていなかったが、アラン田中を3ラウンドTKOで下したデビュー戦は衝撃的で、当時の専門誌では今すぐにでも世界で通用するのではないかと言われるほど評価される。当初の注目とは裏腹に試合内容がぱっとせず、プロ不適格とされ早々に解雇される重量級の選手達をよそに、圧倒的な実力を示し続けペレストロイカ軍団の中で最後まで日本で闘い続けることになる。

1991年3月、日本王座に初挑戦する予定であったが、当時の日本フライ級王者であったピューマ渡久地が試合前に所属ジムとトラブルを起こし失踪したため、試合中止となった。なお、渡久地は王座を剥奪された。その後、ユーリのリングネームを、所属する協栄ジムから誕生した最初の世界王者海老原博幸にあやかり、「チャコフ・ユーリ」から「ユーリ海老原」に改めた。

1991年7月15日、渡久地の王座剥奪によって空位となった日本フライ級王座決定戦に出場。紆余曲折の末、ようやく対戦相手として名乗り出た水野隆博と対戦し、初回に3度のダウンを奪うKO勝ちを収め、王座獲得に成功。その後、11月25日に初防衛成功後、王座返上。

1992年6月23日、世界初挑戦。ムアンチャイ・キティカセムタイ)を8回KOに降し、WBC世界フライ級王座を獲得[1]。なお、この試合は世間一般の知名度に欠けるユーリの試合に注目を集めるためミッキー・ロークの前座として行われた。

ムアンチャイとは翌1993年3月20日の2度目の防衛戦でも敵地タイで対戦。この時も9回TKO勝ちを収め、返り討ちに成功した[1]。この試合では第7ラウンドにユーリがダウンを奪い、その後もユーリが攻勢をかけている時に終了ゴングが30秒も早く鳴らされるなどムアンチャイ側に有利な工作があったことをボクシングマガジンが報じている[2]。なお、この試合は日本のジムに所属するプロボクサーによるタイで行われた世界タイトルマッチの初勝利であり、2024年3月現在もJBC公認としては男子唯一の勝利となっている[3]。ムアンチャイとの2戦はともにJBCから当該年の年間最高試合に選ばれた。

その後、本人の強い希望によりリングネームから「海老原」を削除。1993年7月16日の3度目の防衛戦では「ユーリ・アルバチャコフ」、続く12月13日の4度目の防衛戦直前に「ユーリ」を漢字に改め、「勇利アルバチャコフ」と名乗るようになる[4]

1996年8月26日、9度目の防衛戦で5年前に対戦することが出来なかった渡久地と対戦(渡久地は本名の「渡久地隆人」としてリングに上がった)。9回TKO勝ちを収めるも、右手中指を骨折[1]。試合内容からは想定できないほどの長期間の休養を余儀なくされる。なお、この試合も同年の年間最高試合に選ばれた(勇利にとっては3度目の同賞受賞)。

1997年11月12日、1年以上のブランクを経ての10度目の防衛戦。勇利の休養中に暫定王者となったチャッチャイ・ダッチボーイジムタイ)との統一戦を行う。なお、両者は1995年9月25日にも対戦しており、この時は勇利が12回判定勝ちを収め、7度目の防衛に成功した[1]。2年ぶりの再戦となったこの試合は反対にチャッチャイの12回判定勝ち。2年前の雪辱を許す形となった[1]

世界王座陥落後、勇利は「アマチュア時代から20年近くも戦ってきた。もう疲れた。もうたくさんだ」とコメント。チャッチャイ戦後、一時は復帰も噂されたが、右ストレートを強打するがゆえに右拳を慢性的に故障していることもあり、結局この試合を最後に現役を引退1999年2月、後楽園ホールで引退式を行った。その後、「いわき協栄ボクシングクラブ」のトレーナーを経験。

現在はロシアに帰国し、サンクトペテルブルクに居住している。

メモ 編集

  • 俳優香川照之はかつてボクシング・マガジンで連載していたコラム「熱病的思考法」で後にユーリのデビュー戦を「たいして期待もせずにやってきた目の肥えたマニアのハートを猛烈につかんだ」と絶賛していた。
  • 現役時代、なにかとユーリに噛み付いていた渡久地も引退後は、彼のおかげで強くなれたと感謝している。
  • 世界王者になった当時、週刊誌上で世界王者になっても安いマンション暮らしであるなど、協栄ジムに対する待遇面での不満をユーリが吐露したとして大きく取り上げられた。協栄ジムはこれに対して、外国人選手は人気が出にくい為に興業が難しく世界王者になるまでにかなりの投資をしている、彼らは権利はしっかり主張するがこちらとしてもそういう状況で精一杯の待遇をしていると反論している。
  • プロアマ通じての最強はアマ時代、世界選手権の決勝で対戦したキューバのペドロ・オーランド・レイジェスの名をあげている。なお、当時WBAのフライ級王者だったデビッド・グリマン・メンデスも自身が対戦した中で最強の相手の名にレイジェスをあげている。
  • トレーナーのアレクサンドル・ジミンは勇利引退後もトレーナーをしており、ニコライ・ワルーエフ[5]アレクサンデル・ポベトキン[6]をWBA世界ヘビー級王者に導き、佐々木基樹サーシャ・バクティンも指導した。2013年には女子ボクサーの高野人母美を指導。
  • ユーリは引退後、竹原慎二との対談で、「正直、プロの世界王者になれるとは思わなかった。」と告白している。
  • 強打で人気を博した米国の軽量級スター、マイケル・カルバハルと米国でビッグマッチをする噂が出て、米露戦かと話題になったが、結局実現しなかった。また、カルバハルのライバルであるウンベルト・ゴンザレスとの対戦は実際に交渉段階まで進んだが、これも実現しなかった。
  • 1992年9月23日にリリースされたシャ乱Qのデビューミニアルバム「炸裂!へなちょこパンチ」のジャケット写真にシャ乱Qとともに撮影。現役WBC世界フライ級王者であるにもかかわらず、ジャケット写真では他団体のWBAのチャンピオンベルトを巻いて撮影している。これは撮影時にはまだWBCからチャンピオンベルトが到着しておらず同僚の鬼塚勝也のベルトを借りたため。なお、協栄ジムのリングにて撮影をしている。

戦績 編集

  • プロ戦績: 24戦23勝(16KO)1敗

獲得タイトル 編集

  • 第37代日本フライ級王座(防衛1=返上)
  • WBC世界フライ級王座(防衛9)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年、108-114頁
  2. ^ ボクシングマガジン299 1993年05月号 ユーリ敵地でTKO防衛
  3. ^ その後、2010年4月9日に富樫直美がタイでノンムアイ・ゴーキャットジムを破りWBC女子世界ライトフライ級王座を防衛し、日本人初かつJBC女子初となるタイで世界タイトルマッチ勝利をはたしている。2013年8月1日には江藤光喜がタイでWBA世界フライ級暫定王座を獲得しているが、当時WBAが暫定王座の粗製乱造を進めていたことを理由にJBCからは公認されていない。
  4. ^ 元々、勇利自身は「海老原」というリングネームを嫌っていた。これは決して海老原を嫌っていたわけではなく、「エビ」(“ебать”の変化形“еби”)がロシア語で「性行為をする」を意味しているためとのこと。
  5. ^ WBA世界ヘビー級戦・日本人ジャッジとジミンさん BOXING MASTER 2008年9月3日
  6. ^ “ラウンドアップ”. Boxing News. (2013年11月27日). http://boxingnews.jp/news/8626/ 

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

前王者
ムアンチャイ・キティカセム
WBC世界フライ級王者

1992年6月23日 - 1997年11月12日

次王者
チャッチャイ・ダッチボーイジム
空位
前タイトル保持者
ピューマ渡久地
第37代日本フライ級王者

1991年7月15日 - 1991年12月2日(返上)

空位
次タイトル獲得者
田村知範