北条康種

戦国時代から江戸時代初期の武将。後北条氏の家臣。常陸介。牟礼系高橋氏

北条 康種(ほうじょう やすたね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将後北条氏の家臣。父は北条綱高とされ、母は南条重長の妹。南条氏時代の名()は元高(もとたか)。

 
北条 康種
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文9年6月3日1540年7月6日
死没 元和2年8月2日1616年9月12日
改名 南条平三郎→北条康種→高橋康種→浄蓮入道
別名 南条平三郎元高
戒名 元高院浄蓮日長居士
墓所 高栄山真福寺(東京都三鷹市牟礼2-2-17)
官位 常陸介
主君 北条氏康氏政氏直
氏族 大蔵氏流高橋氏後北条氏
父母 父:北条綱高、母:南条右京亮の妹
兄弟 康種、女子(高橋兵庫室)、女子(高橋高盛室)
正室:太田資重(高心院妙連日周大姉)、
継室:蓮種院妙浄日秀大姉
氏資高橋貞種高橋種乗
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生涯 編集

天文9年(1540年)6月3日、伊豆国田方郡南条にて誕生する。初め、南条平三郎元高と名乗る。天文22年(1553年今川義元との合戦で軍功を挙げ、駿河泉頭城に入城した。

永禄3年(1560年上杉謙信鎌倉を攻めたときに、甘縄城より出陣し、上杉勢の退却時を攻め、小荷駄奉行の柿崎景家の軍を破って、長尾伝左衛門らを討ち取り、戦功を挙げる。この功績により北条氏康から相模三浦の地に500貫を賜った。この時、氏康から偏諱(「康」の1字)と御家号(北条氏)を賜り、北条常陸介康種と名乗る。

天正元年(1573年)、下総関宿城主・簗田晴助が謀反を起こしたため、父・綱高が老齢のこともあり、加勢として江戸城に入城した。天正18年(1590年)の小田原征伐では3月に小田原城が落城したため、長男の北条氏資氏直の名代・随行者として高野山に入寺させ、叔父日栄を頼って、武州碑文谷法華寺(現・圓融寺東京都目黒区碑文谷)に落居した。同年10月に氏資が暇を賜って法華寺に入り、綱高が砦を構えた武州牟礼に移住し、同地を開墾した。この時に、高橋姓に復した。その後、剃髪して浄蓮入道と名乗り、自宅に真福寺を開基した。

元和2年(1616年)8月2日没。73歳[1]

脚注 編集

  1. ^ #三鷹市史史料集第3集(1972),pp.150、154、364。しかし、生誕の1540年がただしいのであれば逆算すると76歳。

参考資料 編集

  • 三鷹市史「牟礼高橋家系図」