北里柴三郎

日本の細菌学者・医師

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう〈名字の読み方の解説は後述〉、嘉永5年12月20日1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年6月13日)は、「近代日本医学の父」として知られる微生物学者・教育者。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。

北里柴三郎
北里柴三郎医学博士
生誕 (1853-01-29) 1853年1月29日
日本の旗 日本 肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県小国町
死没 (1931-06-13) 1931年6月13日(78歳没)
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区
国籍 日の丸 日本
研究分野 細菌学
研究機関 ベルリン大学コッホ研究室
伝染病研究所
慶應義塾大学医学部
出身校 東京医学校卒業
博士課程
指導教員
ロベルト・コッホ
博士課程
指導学生
エミール・フォン・ベーリング
主な業績 破傷風菌純粋培養
血清療法の発見
ジフテリアと破傷風の毒素に対する抗血清開発
ジフテリア抗血清の製造開発
腺ペストの病原菌共同発見
プロジェクト:人物伝
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貴族院議員を務め、位階勲等従二位勲一等男爵医学博士、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名のうちの1人)[1]、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。

生涯 編集

出生から大学卒業まで 編集

北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた[2]。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は、熊本藩惣庄屋北里家の分家の北里家の当主であり[3]庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる[4]

柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止になってしまった。その後、一時的に帰郷して地元の小国郷で教師、役所見習として採用されている(1870年8月26日付の辞令の控えが2022年に発見された)[5]

1871年(明治4年)、藩立の西洋医学所に入学[5]。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている[6]

1875年明治8年)、柴三郎は23歳で上京し、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。

1883年(明治16年)、柴三郎は医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[7]。卒業時の成績(この時、31歳)は26名中8位であった[8]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。

留学時代 編集

 
1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生[注 1][10]

柴三郎は同郷で熊本医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。

ドイツでの柴三郎は、コッホととても仲良くなり、コッホに師事して大きな業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問して、柴三郎にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は異動命令を撤回した[11]

 
破傷風菌に関する論文原稿(明治22年)
コッホと思われる書き込みが認められる
東大医科研・近代医科学記念館

1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと[注 2]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている[12]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない[注 3][12]

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。

帰国後 編集

北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。先述の通り緒方は北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。森林太郎(森鴎外)からは「識ヲ重ンセントスル余リニ果テハ情ヲ忘レシノミ」と評され、北里は「情を忘れたるものに非ず。私情を制したるものなり」と反論した[13]。緒方とも私生活では良好な関係を保ったものの、これにより母校の東大医学部とは対立することになってしまう。当時の日本では東大以外に伝染病研究ができる場所はなく、東大を敵に回すことは柴三郎自身の日本での研究者生命を危うくすることを意味した。

福澤諭吉は、北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳である。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。

1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったので、東京府知事より払い下げられた芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。しかし、移転先の地域に住む近隣住民たちや東大初代総長である渡辺洪基らの妨害にあった。彼らは、移転の反対運動を起こし、北里のやっている研究がひどく危険で人体に有害なものであることを声高に叫んだ。そこで、福沢は移転予定地の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせた。そして、福澤は「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めた。このように、福沢は北里の研究をいつも外野から後方支援した。

帝国議会では衆議院議員の長谷川泰らが中心となり、180人の議員連名で、国が北里の伝染病研究所を財政支援すべきだ、とする声が上がり、国は補助金を伝染病研究所に出して支援し、同所の運営はようやく軌道に乗った。

1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[14]。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎[注 4]は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判している。

 
内務省より発令された東京痘苗製造所長への辞令(明治32年)
東大医科研・近代医科学記念館

1899年(明治32年)、「私立伝染病研究所」は、国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。

その後、伝染病研究所は研究員が増え、業務範囲も増えて芝区愛宕町の建物では手狭になったので、1902年(明治35年)、東京の白金台に2万坪の土地を購入し、1906年(明治39年)11月、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の3機関の入る国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の建物が新たに完成した。

 
「伝染病研究ノ基礎ヲ確立スルニ付テノ意見」(大正2年)
東大医科研・近代医科学記念館

北里柴三郎はかねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)、政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な確執が背景にあると言われている。しかも、その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大と反目していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病インフルエンザ赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

 
「伝染病研究所」の外観を模した近代医科学記念館(東京大学医科学研究所

福沢諭吉没後の1917年(大正6年)、慶應義塾医学所が廃校になってから37年後、慶應義塾は国から医学科設置を許可され、「慶應義塾大学部医学科」が誕生した。北里柴三郎は福沢による長年の多大なる恩義に報いるため、学長[15][注 5]に自ら進んで就任した。新設の医学科の教授陣のメンバーにはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたるスター研究者を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾大学医学部(1920年、大学令により昇格)の発展に尽力した。

明治以降、日本では多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に全国規模の医師会「大日本医師会」が設立され、北里柴三郎はその初代会長に就任した。その後、大日本医師会は、1923年(大正12年)に、医師法に基づく「日本医師会」となり、柴三郎は初代会長としてその組織の運営にあたった。

経歴 編集

 
北里の墓(青山霊園
  • 1894年(明治27年) - 2月、伝染病研究所が芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始する。5月には日本政府により香港へ調査派遣され、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した[14]。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサン英語版もペスト菌を発見した[14]。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。
  • 1899年(明治32年) - 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。4月、北里はそこの所長に就任する。
  • 1901年(明治34年) - 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる[21]
  • 1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。11月、新しい伝染病研究所の建物が東京の白金台に完成し、そこに移転する。
  • 1908年(明治41年) - 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。
  • 1913年大正02年) - 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任する。
  • 1914年(大正03年) - 伝染病研究所が突然、内務省から文部省に移管[22]され東京帝国大学に合併されることになる。この時、北里は、この移管に大反対して所長を辞任する。また、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員も一斉に辞表を提出した。これは「伝研騒動」といわれる。11月5日に私費を投じて「北里研究所」を設立、初代所長に就任する。
  • 1915年(大正04年) - 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる。
  • 1916年(大正05年) - 11月、府県の医師会を統合して「大日本医師会」を設立、会長に就任する。
  • 1917年(大正06年) - 慶應義塾大学部医学科の創立に尽力し、学長となる[15](医学科は1920年(大正9年)に医学部となる)。12月26日、貴族院勅選議員に就任[23]
  • 1920年(大正09年) - 慶應義塾大学医学部学部長[15]慶應医学会会長[24]および大学医学部病院の院長となる[15]
  • 1923年(大正12年) - 日本医師会を創設。初代会長に就任する。
  • 1924年(大正13年) - 2月、男爵叙爵。
  • 1928年昭和03年) - 5月、医学部長を辞任、顧問就任[15]
  • 1931年(昭和06年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年79(78歳没)。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。

栄典 編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許
学術賞
  • 1892年(明治25年)5月1日 - プロイセン王国:プロフエッソル[25]

親族 編集

妻と子供
  • 北里乕(とら、1867 - 1926)妻で松尾臣善の次女。1883年に結婚し、3男3女を育てる[38]
    • 北里康子(1893 - 1981)長女。学習院女学部を出て渡辺銕蔵の妻となる。
    • 北里俊太郎(1895 - 1953)長男。土木・鉄道技術者の杉浦宗三郎 の三女・てる子と結婚し一児をもうけたが、三井物産在職中の1925年、9歳年下の22歳の赤坂芸妓・琴寿と中禅寺湖心中未遂(芸妓は水死)を起こし[39][40]、てる子と離婚後(てる子は大蔵官僚で日本長期信用銀行初代頭取の原邦道と再婚[41])、1927年に横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚した[42]
    • 北里善次郎(1897 - 1978)次男。理科に進んで成業。
    • 北里良四郎(1907 - 1947)末男。工学に進んで実業家となる[38]
庶子
  • 柴崎ナカ - 間に文太郎(1918 -生没不明)、武次郎(1922 - 生没不明、のち生物学者)。
  • 三村こお - 間にトミ(1915 - 生没不明)、陽子(1918 - 生没不明)、正十郎(1921 - 生没不明)[43][44][45]
兄弟
その他

北里の医道論 編集

以下は「北里研究所誌」より[7]

  • 北里は1877年ごろから同盟社という学生結社を組織し、社会活動を志すなら雄弁でなければならないと、毎週土曜に演説会を開き切磋琢磨していた。1878年4月は「医道論」を書き、予防医学を力説した。原稿が残っている。
    • 昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。
    • ついで、医学生、開業医に向かい、現状を批判、昨年のコレラの流行を引用、悲憤慷慨し、予防医学の大切さを訴えている。最後に自作の七言絶句で決意を披歴している。

また、1920年(大正9年)、北里は慶應義塾大学医学部付属病院の開院式で、次のように語っている。

「予は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である。ゆえに不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引き受けたのである。我らの新しき医科大学は、多年医界の宿弊たる各科の分立を防ぎ、基礎医学と臨床医学の連携を緊密にし、学内は融合して一家族の如く、全員こぞって斯学の研鑽に努力するを以て特色としたい」(「三田評論」、大正9年)

北里とハンセン病 編集

  • 第1回国際ハンセン病学会は1897年(明治30年)にベルリンで行われた。日本からは土肥慶蔵が出席、北里は出席はせず、日本のハンセン病事情を誌上発表している[50][要文献特定詳細情報]。第2回ハンセン病学会は1909年にノルウェーベルゲンで開催され、北里は招待されて出席した。集合写真では、北里はハンセンの隣に座っている。北里は日本におけるハンセン病(Die Lepra in Japan)と言う題で発表した。前半で日本の現状、草津での疫学調査、鼻腔内感染者の考察、後半はオランウータンを使った感染実験、ネズミのハンセン病類症(鼠らい)とその細菌学的研究を述べている。
  • 北里は伝染病研究所を創立してまもなく、ハンセン病の研究を開始している。これは私立らい療養所である目黒の慰廃園から専門医の派遣を要請されて行ったものである。一種の免疫療法剤である「レプリン」を開発したが、あまり有効ではなかった。『日本らい史』には、約3年間に180名を治療、全治4名、全治に近いもの3名、死亡2名、その他は快方に向かいつつあるとあるが、ハンセン病の自然治癒を薬剤効果と間違えたと考えられるという文献を引用している[51][注 8]
  • 来日したハンナ・リデルは、1895年熊本に回春病院というハンセン病病院を設立した。その後、敷地内にハンセン病研究所を企画した。1917年にリデルの頼みに応じ、北里研究所の内田三千太郎を研究所長に割愛した。回春病院の経営にも支援し、1918年(大正7年)の回春病院の募金活動趣意書に発起人として北里の名を連ねている[53]

その他のエピソード 編集

  • 日本を代表する医学者として野口英世と並び、当時は世界的に著名であった人物である。野口は北里研究所に研究員として勤務しており、柴三郎とは形式上師弟関係である。また、テルモの筆頭設立発起人でもあり、CMにたびたび登場していたこともある。
  • 門下生からはドンネル先生[注 9]との愛称で畏れられ、親しまれていた。
  • 葉山にあった北里の別邸は豊年のオーナーの杉山家の手に渡り平成11年まで存在した。跡地には分譲マンションが建設された。
  • 令和6年度(2024年度)上半期に執行が予定される日本銀行券の紙幣改定において、北里柴三郎が千円紙幣の肖像として使用されることが決定し、平成31年(2019年)4月9日に発表された[54][55][56]
 
表面

名字の読み 編集

名字の「北里」の読み方に「きたざと」と「きたさと」の2つが存在するが、本来は「きたざと」である。

「きたざと」と発音するのは、子孫や、出生地の小国町、北里柴三郎記念館など[49]

「きたさと」と発音するのは、学校法人北里研究所(北里大学)や、北里を紙幣デザインに選んだ際の財務省の発表、それを受けたテレビ局など[49]。また、文部科学省の教科書検定では「きたざと」は誤りとしている[57]

北里は留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらうために、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い「Kitasato」と署名した。その署名が英語圏では「きたさと」と読まれ、英語圏の読み方が一般的となっていった[49][58][59]

人脈 編集

恩師・知友 編集

以下は北里研究所誌より[60]

  • コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト - オランダ予備海軍軍医。オランダ館の医師として来日。1866年から1870年まで徳川幕府の依頼で長崎医学校の前身の精得館で教鞭をとり、1871年から3年間、熊本の医学校で教鞭をとった。北里はマンスフェルトに呼ばれて特別な教育を受け、2年目からマンスフェルトの講義の通訳を務め、講義録を作成した。後年、北里が有名になって母国に帰ったマンスフェルトに会っている[61]
  • ロベルト・コッホ - 世界的な細菌学者で北里の恩師。1908年に来日したときは、明治天皇、森鴎外、北里などから国家的歓待を受けている。鎌倉にコッホ碑、北里大学白金キャンパス敷地内にコッホ・北里神社がある。
  • 福澤諭吉 - 北里のために「伝染病研究所」を建て、その運営のために結核専門病院である「土筆ヶ丘養生園」を建てた。また、伝染病研究所の近所に自らの子息の1人を住まわせた。
  • 森村市左衛門 - 福澤諭吉の求めに応じて私立伝染病研究所に多額の寄付をした。
  • 長與專齋 - 長崎でマンスフェルトに師事したため北里の先輩にあたる。文部省および内務省の医務局長として活躍した。北里が最初に就職したときに世話になった。
  • 長谷川泰 - 内務省医務局長を経て衆議院議員。伝染病研究所問題に関与した。
  • 後藤新平 - 医師。内務省に入ったのは北里の3か月前。ライバルであったが、コッホより北里に師事するようにいわれ、親しくなり終生の友となる。内務省衛生局長、東京市長を歴任。
  • 清浦奎吾 - 同郷の政治家。首相を務める。政治的に北里の後ろ盾となる。
  • 徳富蘇峰 - 同郷の文学者。郷土の北里の胸像の文字は徳富による。
  • 山根文策 - 北里の東大の同級生。横浜十全病院の院長であったが、土筆ヶ丘養生園の診療に加勢。長女を北里の次男に嫁がせている。
  • 隈川宗雄 - 北里の東大の同級生。生化学教授。
  • 荒木寅三郎 - ドイツ留学中に知り合う。北里が学費の援助をした。長い間協力関係があった。
  • 塩原又策 - 三共株式会社の創始者。
  • 高峰譲吉 - アドレナリンの発見者。手紙で情報の交換を行う。
  • 木下謙次郎 - 食通仲間。北里は木下の「美味求真」の序文を書いている。
  • ルイ・パスツール - 1892年、北里は帰国に際し、パスツールに会いに行っている。有名な細菌学者であるが、ドイツ語ができなかったためコッホとの確執が生じた。
  • パウル・エールリヒ - 北里の兄弟子。1908年、免疫学でノーベル生理学・医学賞を受けている。
  • エミール・アドルフ・フォン・ベーリング(1854 - 1917) - 北里との共著で1901年第1回ノーベル生理学・医学賞を受けている。
  • ほかにゲオルク・ガフキーウィルヘルム・レフレルアウグスト・フォン・ワッセルマンウィリアム・ウェルチイリヤ・メチニコフなどと文通がある。

後進の育成 編集

  • 石神亨(1857 - 1918) - 北里の熊本医学校時代の同輩。慈恵病院を経て、海軍軍医、北里の伝染病研究所でツツガムシ病、結核、ペストを研究。北里を助けた。
  • 梅野信吉(1862 - 1930) - 獣医。1899年、国立伝染病研究所に入所。ジフテリア免疫血清を作るなど活躍した。
  • 高木友枝(1858 - 1943) - 北里の東大時代2年後輩。伝染病研究所の助手。ペスト調査団として北里と石神が香港に派遣されたが、石神が発病したため香港に派遣された。その後、台湾の電力会社社長になる。
  • 浅川範彦(1865 - 1907) - 高知医学校、済生学舎を経て医師開業試験に合格。ドイツ語を勉強した。伝染病研究所に入所。ツツガムシ病、破傷風を研究、欧米に先駆けて腸チフス診断液を作ったが、42歳の若さで他界した。
  • 北島多一(1870 - 1956) - 東京大学卒業。伝染病研究所に入所。ドイツ留学ではベーリングのもとで研究し、帰国後、ハブ血清療法を研究。北里研究所、慶應義塾大学医学部、中央衛生会、日本医師会、済生会などすべて北里の跡を継ぎ、その長になっている。
  • 志賀潔(1871 - 1957) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。赤痢菌を発見。エールリヒのもとで研究。トリパノゾーマ原虫と色素を用い、エールリヒが考えていた化学療法が有効であることを証明した。
  • 秦佐八郎(1973 - 1938) - 岡山の医学部を卒業。伝染病研究所に入所。ペストを研究。ドイツではワッセルマンのもとで免疫学を研究。有功なサルバルサンを発見。
  • 野口英世(1876 - 1928) - 済生学舎で勉強。医師開業試験に合格。1898年、伝染病研究所に入所。ペスト患者を発見、ペスト菌を確認し、ペストの蔓延を防いだ。アメリカに留学を希望した際、北里は知友5名宛ての紹介状を書いた。最初は臨時職員であったが、北里に礼状を書いている。ペンシルベニア大学のサイモン・フレクスナーのもとで業績を上げ、正規職員になっている。
  • 宮島幹之助(1872 - 1944) - 医学から動物学に転向。国立伝染病研究所に入所後、マラリア、ツツガムシ病、日本住血吸虫、ワイル氏病を研究した。国際アヘン中央委員会委員、代議士としても活躍した。
  • 高野六郎(1884 - 1960) - 医師。国立伝染病研究所に入所。補体作用における特殊なメカニズム、コレラ菌と腸チフス菌の菌体毒素と菌体成分、サルバルサンなどを研究。北里研究所創立に参加。慶應義塾大学医学部教授。厚生省予防局長。北里研究所の第3代所長を務める。
  • 大谷彬亮(1880 - 1939) - 京都大学卒業。国立伝染病研究所、ドイツ留学。北里研究所内科部長。慶應義塾大学内科教授。養生園園長勤務。
  • 後藤格次(1889 - 1969) - 東京大学農学部出身。国立伝染病研究所、北里研究所で研究。サルバルサンの国内製造を目指して成功。
  • 小林六造(1887 - 1969) - 京都大学出身。伝染病研究所に入所。破傷風血清、淋菌ワクチンを研究。慶應義塾大学教授。国立予防研究所所長。らい研究所長を務める。
  • 古賀玄三郎(1879 - 1920) - 京都大学出身。伝染病研究所に入所。結核のチアノクプロール療法を創始。
  • 柴山五郎作(1871 - 1913) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。コレラとペストを研究。
  • 照内豊(1873 - 1936) - 東大卒業後、伝染病研究所に入所。医化学を研究。脚気ビタミンの研究で知られる。
  • 肥田音市(1880 - 1954) - 済生学舎出身。国立伝染病研究所でジフテリアを研究。
  • 草間滋(1879 - 1936) - 東大卒業後病理学を専攻。ドイツ留学ではフライブルク大学で勉強。北里研究所部長。1919年より慶應義塾大学病理学教授。多くの俊英が集まった。
  • 田端重晟(1864 - 1945) - 結核病院養生院の事務長。蓄財をよくし、北里研究所の設立に役に立った。
  • 緒方収二郎(1857 - 1942) - 緒方洪庵の6男。養生園の医師。
  • 田尻寅雄(1866 - 1947) - 第五高等中学医学校卒後、養生園・伝染病研究所助手として細菌学を研究。回春病院初代院長。

業績 編集

邦文業績 編集

以下は北里研究所誌より[62][注 10]

  • 「蒼蠅ハ病毒伝染ノ媒介者」大日本私立衛生学雑誌7号、pp.14-17(1883)
  • 「妊娠ヲ鑑別する新法」 中外医事新報96号、pp.1-2(1884)
  • 「肝蛭(肝臓ジストマ)ノ発生スル理由」 中外医事新報99号、pp.1-3(1884)
  • 「痰中にあるコグ氏(コッホ)黴菌試験法」 中外医事新報122号、pp.1-5、123号、pp.8-13(1885)
  • 「鶏虎列刺(トリコレラ)菌発見 (緒方正規、北里柴三郎共著) 官報561号、pp.15-16(1885)
  • 「衛生上飲料水簡易試験法」 大日本私立衛生会雑誌29号、pp.44-59(1885)
  • 「赤痢菌探究」東京医事新誌409号、pp.155-158、410号、pp.189-192(1885)
  • 「長崎県下虎列刺病原ノ談」 大日本私立衛生会雑誌31号、pp.14-26(1885)
  • 「第8回コッホ記念講演開會の辞」細菌學雑誌316号、pp.54-55(1922)
  • 「微生物ノ研究及應用」北里柴三郎記念室史料34号(1918、北里研究所)
  • 「學問の神聖と獨立」三田評論211号、pp.15-19(1915)
  • 「結核のツベルクリン療法に就て」細菌學雑誌199号、pp.331-345(1912)
  • 「万國學藝會議状況」細菌學雑誌108号、p.630(1904)
  • 癩(らい)病に関する研究」傳染病研究所一覧(明治32年1月)pp.78-80(1899、傳染病研究所)
  • 「論説」細菌學雑誌25号、pp.1-4(1897)
  • 「惡性水腫菌、ラウシュブラント菌(鳴疽菌)、破傷風菌、インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp.26-119(1896、傳染病研究所)
  • 「インフルエンザ菌」傳染病研究講義、pp.115-119(1896、南江堂)
  • 「實布垤里亞(ジフテリア)及虎列刺(コレラ)病治療成績報告」細菌學雑誌1号、pp.3-56(1895)
  • 「事業の成績 實布垤里亜・破傷風」傳染病研究所一覧、pp.11-25(1895、傳染病研究所)
  • 「癩病」傳染病研究所一覧、pp.21-22(1895、傳染病研究所)
  • 「ペスト菌ニ就テ」細菌学雑誌13号、pp.923-938(1895)
  • 「ペスト病の原因調査 第1報報告」官報3326号、3327号、pp.367-368、pp.5-7(1894)
  • 「ペスト病の原因取調に就て」大日本私立衛生會雑誌135号、pp.634-673(1894)
  • 「ペスト病ノ原因調査第一報告」東京醫(医)學會雑誌8号、pp.698-707(1894)
  • 「ペスト病調査復命書」官報3327号、pp.5-7(1894)
  • 「ペスト病調査復命書」官報3326号、pp.367-368(1894)
  • 「傳染病研究所設立の必要」大日本私立衛生會雑誌110号、pp.501-509(1892)
  • 「論説」細菌學雑誌25号、pp.787-790(1887)
  • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌410号、pp.189-192(1886)
  • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌409号、pp.155-158(1885)
  • 「長崎縣下虎列刺病原ノ談」大日本私立衛生會雑誌31号、pp.14-26(1885)
  • 「医道論」北里柴三郎記念室史料2(1878、北里研究所)
  • 「傳染病研究所ノ内務省所管ナラサルヘカラサル事」北里柴三郎論説集、pp.1219-1224
  • 「結核豫防の急務」(1925年4月28日、第1回結核予防デーに東京放送局より放送)、社團法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協會、pp47-49(1925)

ドイツ留学中の業績 編集

以下は北里研究所誌より[63]

  • 日本のコレラ(ドイツ語)Dtsch.med.Wschr.,13:921-922,1887.
  • チフス、コレラ菌の酸、アルカリ培地での様態(ドイツ語)Z. Hyg., 3:404-426,1888.
  • 敗血中のらせん菌の純培養と重層らせん菌(ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit.3,73-75, 1888.
  • コレラ菌の乾燥及び熱にたいする抵抗性(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 134-140, 1889.
  • 人糞中コレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 487-490, 1889.
  • 乳汁中コレラ菌の様態(ドイツ語), Z. Hyg., 5, 491-496, 1889.
  • 人工培養で他種の病原、非病原菌に対するコレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 1-10, 1889.
  • コレラ菌の乾燥および熱にたいする抵抗性 追加報告(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 11-12, 1889.
  • 気腫疽菌培養試験(ドイツ語)Z. Hyg., 6:105-116, 1889.
  • 破傷風の病原菌(ドイツ語)Ztsch. med. Wschr. 15:635-636, 1889.
  • 破傷風菌(ドイツ語)Z. Hyg. 7:225-234, 1889.
  • チフス類似菌に対比し、チフス菌のインドール反応は陰性(ドイツ語)Z. Hyg. 7:515-520, 1889.
  • 麝香菌(ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit. 5: 365-369, 1889.
  • 嫌気性菌の新知見(ドイツ語)Z. Hyg., 8:41-47, 1889.
  • 気腫疽菌の固形培地での発育(ドイツ語)Z. Hyg., 8:55-61, 1890.
  • 土壌中の深度と炭疽菌芽胞形成性の調査(ドイツ語)Z. Hyg., 8:198-200, 1890.
  • 嫌気性菌の新知見 第2報 破傷風菌(ワイル共著)(ドイツ語)Z. Hyg., 8:404-411, 1890.
  • 動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立(ベーリング共著)(ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 16:1113-1114, 1890.
    • Ueber das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität und der Tetanus-Immunität bei Tieren Dr. Behring und Dr. Kitasato , Deutsche Medicinische Wochenshrift 49, 4. December 1890.[64]
  • 嫌気性菌の新知見 第3報(ワイル共著)(ドイツ語)H. Hyg. 9: 97-102, 1890.
  • 破傷風毒素に関する実験的研究(ドイツ語)Z. Hyg. 10:267-305, 1891.
  • インフルエンザ菌とその培養法(ドイツ語)Dtsch. med. Wschr. 18:28, 1892.
  • 喀痰中の結核菌とその他病原菌の純粋培養(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskrh. 11: 441-444, 1892.
  • 免疫と抗毒性について(ブリーゲル、ワッセルマン共著)(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 137-182, 1892.
  • 破傷風動物の治療実験(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12: 256-260, 1892.
  • 結核モルモットのツベルクリン療法(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 12:321-327, 1892.

帰国後に論文になったもの(欧文論文のみ) 編集

以下は北里研究所誌より[65]

  • 香港のペスト(ラウソンによる速報)(英語)Lancet, 1894 (ii), August 11:325,1894.
  • 腺ペスト菌(英語)1894 (ii) August 25:428-430,1894.
  • ペスト(中川愛咲共著)(英語)Twentieth Century Practice, vol.7, Infectious Diseases, p.325-352, New York, William Wood & Co., Boston, 1898.
  • 明治32年11月から明治33年1月までの神戸、大阪のペスト流行調査報国(高木友枝、志賀潔、守屋伍造共著)(ドイツ語)内務省衛生局報 1900年 1-104, 1900.
  • 和牛と結核(牛結核)との関係(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 48:471-484, 1904.
  • 和牛と結核(牛結核)との関係(英語)Medicine & Technology, Vol.6, 137-148, Miffilin & Co. Boston, 1906.
  • 日本のペスト撲滅対策(英語)Philippines J. Sci. 1: 465-481, 1906.
  • 日本のペスト撲滅対策(英語)New York Med. J. 84: 1-29, 1906.
  • 日本のハンセン病(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:507-516, 1909.
  • 日本の結核病(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:517-520, 1909.
  • 日本のペスト(ドイツ語)Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 64:279-284, 1909.
  • 日本のペスト予防(英語)Reports of the International Plague Conference, Bureau of Printing, Manila, 244-247, 1912.
  • ペストについて(ドイツ語)Berliner klinische Wschr. 41:1881-1884, 1913.

栄誉一覧 編集

以下は北里研究所誌より[66]

  • 勲三等瑞宝章(日本、1892年)
  • プロフェッソルの称号(プロシア、1892年)
  • 勲三等旭日中綬章(日本、1894年)
  • ロンドン衛生研究所名誉所員(イギリス、1895年)
  • イタリア王国衛生会名誉会員(イタリア、1896年)
  • イギリス衛生院名誉会員(イギリス、1896年)
  • カタルーニア衛生院名誉会員(スペイン、1898年)
  • ロシア陸軍軍医大学校名誉会員(ロシア、1899年)
  • ベルリン万国結核中央予防局名誉会員(ドイツ、1901年)
  • 国際結核予防協会名誉会員(ドイツ、1902年)
  • マニラ医学会名誉会員(フィリピン、1903年)
  • アメリカ熱帯医学会名誉会員(アメリカ、1903年)
  • ニューヨーク医学会名誉会員(アメリカ、1904年)
  • ハーベン学会名誉会員(イギリス、1904年)
  • ロンドン伝染病学会名誉会員(イギリス、1904年)
  • セントルイス科学協会名誉会員(アメリカ、1904年)
  • ロンドン王立内科外科学会(現・ロンドン王立医学協会)名誉会員(1905年)
  • 勲二等瑞宝章(日本、1906年)
  • 帝国学士院会員(日本、1906年)
  • ロンドン王立公衆衛生学会名誉会員(イギリス、1907年)
  • 第6回国際結核予防会議名誉通信会員(オーストリア、1907年)
  • 王立協会外国人会員(イギリス、1908年)
  • パトリジー・エキゾーチック学会名誉会員(フランス、1908年)
  • 星章赤鷲第二等勲章(ドイツ、1909年)
  • ロンドン熱帯病学会及び衛生学会名誉会員(イギリス、1910年)
  • ベルリン医学会名誉会員(ドイツ、1910年)
  • サン・オラフ第二等甲級勲章(ノルウェー、1910年)
  • 熱帯医学会名誉会員(フランス、1912年)
  • アメリカフィラデルフィア哲学会会員(アメリカ、1914年)
  • コマンドール・ド・ロフドル・ナシオナル・ド・ラ・レジオン・ド・ヌール勲章(フランス、1914年)
  • フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員(アメリカ、1914年)
  • フランス学士院医学部会員(フランス、1916年)
  • 男爵(日本、1924年)
  • ハーベン金牌(イギリス王立公衆衛生院)(1925年)
  • レニングラード微生物学会名誉会員(ロシア、1926年)
  • ウィーン微生物学会名誉会員(オーストリア、1926年)
  • レオポルディナ・ドイツ帝国自然科学学士院会員(ドイツ、1926年)
  • 国際微生物学会名誉会員(フランス、1930年)
  • 勲一等旭日大綬章(日本、1931年)

著書 編集

単著 編集

  • 宇都宮綱条 編『黴菌学研究』英蘭堂、1893年7月。NDLJP:834066 
  • 『北里医学博士演説』君沢田方郡私立衛生会、1893年7月。NDLJP:836805 
  • 『ペスト病ノ原因調査第一報告』伝染病研究所、1894年8月。NDLJP:835409 
  • 『恙虫病原調査報告書』伝染病研究所、1894年12月。NDLJP:835306 
  • 『実布垤利亜及虎列剌病治療成績報告』伝染病研究所、1895年1月。NDLJP:835255 
  • 中川愛咲編纂 編『伝染病研究講義』 第1巻、南江堂、1896年11月。NDLJP:835313 
  • 『「ペスト」ト蚤ノ関係ニ就テ 淡路島由良町ニ於ケル「ペスト」流行ノ研究』東京市役所、1909年3月。NDLJP:835397 
  • 『肺の健康法』広文堂、1910年12月。NDLJP:835362 
  • 『北里細菌及伝染病学雑纂』金原商店、1911年6月。NDLJP:835118 
  • 『伝染病予防撲滅法』家庭之衛生社、1911年12月。NDLJP:837085 
  • 『強肺深呼吸法』広文堂〈最新衛生叢書 第1編〉、1911年12月。NDLJP:836814 
  • 『伝染病予防撲滅法』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第1編〉、1911年12月。 
  • 『腸窒扶斯とパラチフス』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第2編〉、1912年8月。NDLJP:934889 
  • 『虎列剌予防法』家庭之衛生社〈通俗伝染病叢書 第3編〉、1912年10月。NDLJP:934890 

共著 編集

  • 北里柴三郎『北里柴三郎破傷風菌論』哲学書房〈能動知性 1 生の場〉、1999年12月。ISBN 9784886792518 

編集 編集

  • 『北里研究所一覧』北里研究所、1915年12月。 
    • 『北里研究所一覧』(第3版)北里研究所、1918年10月。NDLJP:934981 

校閲 編集

  • 柳下士興、斎藤粂次郎『虎列剌赤痢予防消毒実施手控』柳下釧之助、1895年5月。NDLJP:835150 
  • 遠城兵造『臨床的細菌検査法』日本医事週報社、1896年8月。NDLJP:834607 
  • 石神亨 編『ペスト』石神亨、1899年12月。NDLJP:835395 
    • 石神亨 編『ペスト』(増補再版)石神亨、1900年3月。NDLJP:835396 
  • 柴山五郎作『最近之肺結核療法』山本重傑、1901年2月。NDLJP:835246 
    • 柴山五郎作『最近之肺結核療法』(改訂増訂10版)誠之堂書店、1907年11月。NDLJP:835247 
    • 柴山五郎作『最近之肺結核療法』(改補改版(12版))誠之堂書店、1912年5月。NDLJP:835248 
  • 志賀潔『赤痢病論』佐藤嘉六、1901年6月。NDLJP:835278 
  • 岡崎祇照『袖珍細菌学』南江堂、1904年12月。NDLJP:833659 
  • 柴山五郎作『社会教育 肺結核』誠之堂、1907年3月。NDLJP:835353 

作品集 編集

  • 『北里柴三郎論説集』北里研究所、1978年12月。 
  • 『北里柴三郎読本』 上 北里柴三郎伝 北里柴三郎論説選(前篇)、書肆心水、2013年1月。ISBN 9784906917099 
収録:破傷風病毒菌及びそのデモンスタラチオン, 緒方氏の脚気バチルレン説を読む, 与森林太郎書, 伝染病研究所設立の必要, 赤痢病流行に就いて, 種痘に就いて, ローベルト・コッホ氏の黴菌学上コレラ診断法の現況, 恙虫病原に就いて, ペスト病の原因取調べに就いて, 免疫試験結果の報告, コレラ病血清療法に就いて, 伝染病予防法大意, 牛痘免疫法, 天然抗毒素の所在についての質疑, 医学博士中浜東一郎君に答う, 伝染病予防接種法に就いて, 輓今に於ける血清療法の価値, 前年中に於ける海外衛生上の報道, ペストに就いて, 挨拶
  • 『北里柴三郎読本』 下 北里柴三郎論説選(後篇)、書肆心水、2013年1月。ISBN 9784906917105 
収録:ペスト予防接種に就いて, 免疫血清談, 伝染病に就いて, 慢性伝染病予防に就いて, 伝染病の予防に関する二、三の注意, ペスト予防に就いて、流行性脳脊髄膜炎に就いて, 二、三の伝染病に対する注意, 結核の蔓延及び予防, ローベルト・コッホ先生, ペスト病予防に関するコッホ氏の意見, 日本に於けるペスト蚤説の証明, 欧洲視察談, 伝染病予防に就いて, 腸チフス予防に関する注意, 故恩師ローベルト・コッホ先生を弔う, 医師試験と医科大学, 伝染病研究所の内務省所管ならざるべからざる事, 労働者の保護、結核病に就いて, 挨拶, 伝染病研究所辞職の理由, 陳情書, 伝染病研究所全所員に対する告別, 北里研究所設立趣旨書, 北里研究所設立披露, 結核療法の進歩, 結核の蔓延及びその予防, 開所の辞, 学問の神聖と独立, コレラ研究の回顧, コレラ, ペスト, 開会の辞, 医師奮起の要望, 挨拶, コッホ未亡人宛書翰訳文, 式辞
  • 林志津江・森孝之・檀原宏文・手塚甫 訳『北里柴三郎学術論文集 日本語翻訳版』北里研究所〈北里柴三郎研究シリーズ 2〉、2018年11月。 
収録:日本におけるコレラ, チフス菌およびコレラ菌の酸またはアルカリ性培地に対する反応について, 腐敗血液に由来するらせん菌(Spirillum concentricum n.sp.)の純粋培養について, 緒方の「脚気菌」、脚気の病因論に関する研究について, ペーケルハーリングおよびヴィンクレルの「ベリベリ」に関する報告について, ペーケルハーリングおよびヴィンクレルの上掲反論に対する覚書, コレラ菌の乾燥および熱に対する抵抗力, 人糞中でのコレラ菌の反応, 牛乳中でのコレラ菌の反応, 人工培地中のコレラ菌がおよぼす他の病原性および非病原性微生物に対する反応について, コレラ菌の乾燥および熱に対する抵抗力, 気腫疽菌とその培養法について, 破傷風病原体について, 破傷風菌について, チフス菌が有する他のチフス菌類似細菌とは異なったインドール陰性反応, 麝香菌について, 嫌気性細菌に関する知見, 気腫疽菌の固形培地における増殖について、気腫疽菌とその培養法について, 深度が異なる土壌中における炭疽菌の芽胞形成に関する研究, 嫌気性細菌に関する知見 第2報 破傷風菌, 動物におけるジフテリア免疫および破傷風免疫の成立について, 嫌気性細菌に関する知見 第3報 酸化的および還元的培地について, 破傷風毒素に関する実験的研究, インフルエンザ菌とその培養法について, 喀痰から採取した結核菌およびその他の病原性細菌の純粋培養, 免疫と耐毒性について, 破傷風に罹患した動物の治療実験, 結核に罹患したモルモットに対するツベルクリン療法について, 腺ペスト菌, 神戸と大阪におけるペストの流行に関する報告, ウシ結核(ペルズフト)に対する日本原産牛の反応, ウシ結核(ペルズフト)に対する日本原産牛の反応について, 日本におけるペストとの闘争, 日本におけるペストとの闘い, 日本におけるハンセン病, 日本における結核, 日本におけるペスト, 日本におけるペスト予防措置, エミール・フォン・ベーリング博士への書簡, エミール・フォン・ベーリング博士への書簡, 教授ローベルト・コッホ博士への挨拶, 第2回万国(国際)ハンセン病会議における挨拶, 第16回万国(国際)医学会議における挨拶, 通信、Dtsch.med.Wschr編集委員に対する北里柴三郎教授の公開書状, 第6回極東熱帯医学会における会頭演説, ラウソン医師からの通信、香港におけるペスト

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉石黑忠悳隈川宗雄尾澤主一[9]。中列左から森林太郎武島務中濱東一郎、佐方潜蔵、島田武次、谷口謙瀬川昌耆、北里、江口襄[9]。後列左から濱田玄達加藤照麿北川乙治郎[9]
  2. ^ 財団のウェブ・ページのエミール・ヴォン・ベーリングのBiography[1]には柴三郎の名が共同研究者として記述されている。
  3. ^ ノーベル財団の資料 (Mahatma Gandhi, the Missing Laureate) には、「1960年までノーベル平和賞はほぼ排他的に欧米人に与えられた」と記述されている(ただし「人種差別が原因」とは記していない)が、生理学・医学賞については特にそのような言及はない。
  4. ^ 北里はドイツ留学中に森と交友関係を結び、森は北里の紹介によりコッホに面会しているが、脚気感染症説を巡って2人は対立することとなる。なお北里は森の2年後輩に当たるが、両者は共に医学校予科の入学の際に年齢詐称をしたので、北里の方が10歳年長であった[13]
  5. ^ 「一、大学部本科各科ニ学長一名ヲ置ク」[16]
  6. ^ 大村によると11月とある[18]
  7. ^ 大村によると帰国は1892年(明治25年)5月28日。11月、内務省医務局に復職。1892年(明治25年)10月、福澤諭吉森村市左衛門の援助を受け芝公園内に私立伝染病研究所を設立。11月30日、大日本私立衛生会の委嘱を受け伝染病研究所の所長に就任。1893年(明治26年)9月、日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(北里研究所病院の前身)を設立[18]
  8. ^ 北里のほぼ同じ成績が1907年の増田勇の著書に引用されている[52]
  9. ^ ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner) の意。
  10. ^ 1885年の業績までは内務省時代である。

出典 編集

  1. ^ 読売新聞読売新聞社、1988年3月28日、[要ページ番号]
  2. ^ “北里柴三郎: 感染症予防と治療のパイオニア”. nippon.com. (2020年9月3日). https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b07213/?cx_recs_click=true 2020年11月29日閲覧。 
  3. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 716.
  4. ^ 大村 & 宇津野 (2003), p. 12.
  5. ^ a b 青年期の北里、地元で教師”. 共同通信 (2022年5月27日). 2022年5月27日閲覧。
  6. ^ 大村 & 宇津野 (2003), p. 16.
  7. ^ a b 大村 & 宇津野 (2003), pp. 22–23.
  8. ^ 大村 & 宇津野 (2003), p. 25.
  9. ^ a b c 石黑 (1936), p. 242.
  10. ^ 石黑 (1936), p. 241.
  11. ^ 大村 & 宇津野 (2003), p. 36.
  12. ^ a b 効果に注目、「抗体医薬」asahi.comアスパラクラブaサロン「科学面にようこそ」
  13. ^ a b 谷原 (2013).
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参考文献 編集

  1. ^ 内容は北里柴三郎伝と北里柴三郎論説編(前編)で底本は前は1932年に非売品として刊行された北里柴三郎伝と1978年の北里柴三郎論説集である。前の方は北里柴三郎の名前があるが、宮島幹之助と高野六郎が執筆したことが分かっている。旧版は非売品であったので、殆どの公共図書館に所蔵されていない。

関連作品 編集

  • 村松梢風『細菌の猟人』自由国民社, 1957年 

関連項目 編集

外部リンク 編集

日本の爵位
先代
叙爵
男爵
北里(柴三郎)家初代
1924年 - 1931年
次代
栄典喪失