十句観音経』(じっくかんのんぎょう)は、大正新脩大蔵経には収録されていない偽経であるが、日本では『延命十句観音経』(えんめいじっくかんのんぎょう)という経名で信徒向けの日課経本に掲載されることが多く、原田祖岳の述べる「大乗極致の信仰も哲理も実行法も完全に具わって居るといふ、大變結構なお経文」で僅か42文字の最も短い経典として知られている[1]江戸時代に「延命」の2字を付加し、弘通させたのは 臨済宗中興の祖といわれる白隠である[2][3]

全文 編集

観世音。南無仏。(かんぜおん。なむぶつ。)
与仏有因。与仏有縁。(よぶつういん。よぶつうえん。)
仏法僧縁[注釈 1]。常楽我浄[注釈 2]。(ぶっぽうそうえん。じょうらくがじょう。)
朝念観世音。暮念観世音。(ちょうねんかんぜおん。ぼねんかんぜおん)

念念従心起[注釈 3]。念念不離心[注釈 3][注釈 4]。(ねんねんじゅうしんき。ねんねんふりしん) — 『延命十句観音経』

注:()内はよみがな。原文テキストは”小林正盛[注釈 5] 編『真言宗聖典』, 森江書店, 大正15, p.113”。旧字体を新字体に改める。

口語訳 編集

観世音菩薩に帰依します。

我々は仏と因縁でつながっています。[注釈 6]
三宝の縁によって、「常楽我浄」を悟ります。[注釈 7]
朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。

観世音菩薩を念じる想いは我々の心より起こり、また観世音菩薩を念じ続けて心を離れません。

来歴 編集

中国 編集

『十句観音経』に関する古文献は宋代の3本で、いずれも下記南北朝時代南朝宋王玄謨(おうげんぼ)の事績を伝えるものであるが、十句観音経のテキスト部分にも若干の異同がある。なお南朝梁(502 - 557年)に完成したとされる『宋書』にもこの事績は書かれているが、『觀音經』とあるだけで経文は収録されていない[5]

該当する文献は、敗走した王玄謨が辛くも死罪を免れたという話で、最も古いとされるものは『太平広記』(977 – 978年)、『太平御覧』(977 - 983年)の2本で、ほぼ同時代、いずれも太宗の勅による李昉[6]徐鉉らによる撰述である。内容は古小説集『談藪』からの抜抄としており、2本ともほぼ同じ内容である[7]。さらに時代を下ると、中国天台宗の祖師列伝を記録した咸淳 四明東湖沙門志磐撰『仏祖統紀』(1269年)があり[8]、記述量は多くなっている。繁簡あるものの内容は次のような南北朝時代の伝説である。

南朝宋の元嘉27年(450年)、第三代皇帝文帝劉義隆は劉康祖・沈慶之らの反対を押し切って北魏へと攻め込んだ。柳元景薛安都・龐法起らの本軍は連戦連勝して潼関を陥れたが、一方、淮北に別軍を進めた王玄謨は、碻磝を陥れ、滑台を包囲したにもかかわらず、北魏の太武帝の親征軍が大挙して渡河したため敗走に追い込まれた。そのため文帝は止むを得ず本軍を撤退するはめになった。

王玄謨:宋太原の王玄謨は爽邁にして不群なり。北征し律を失い、軍法當に死とす。夢に人謂て之を曰く:「汝觀世音を千遍誦すれば、禍免を得るべし」謨曰く:「命旦夕に懸る、千遍何を得べき」乃(かさ)ねて授して云く:「觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有縁。佛法相縁。常樂我情。朝念觀世音。暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心」既に而して誦滿千遍。將就きて戮(りく)さんに、將軍沈慶之諫(いさ)め、遂に免れり。歴位尚書金紫豫州刺史。原闕出處。明鈔本作出談藪

— 『太平広記』卷一百一十一 報應十 觀音經 王玄謨の条、(原文訓読)

『談藪』に曰く:王玄謨は爽邁にして不群なり。北征し律を失い、法當に死とす。夢に人謂て之を曰く:「汝觀音經千遍誦すれば、禍免れるべし」謨曰く:「命旦夕に懸る、千遍何に由り得べき?」乃ねて口授して云く:「觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有縁。佛法相縁。常樂我淨。朝念觀世音。暮念觀世音。念念從心起。念佛不離心」而して滿千遍誦す。將就きて戮さんに、將軍沈慶之諫(いさ)め、遂に免れり。

— 『太平御覧』卷六百五十四 釋部二 談藪の条冒頭、(原文訓読)
二十七年。王玄謨北征失律。蕭斌欲誅之。沈慶之諫曰佛貍魏世祖小子威震天下。豈玄謨所能。當殺戰將徒自弱耳。乃止。初玄謨將見殺。夢人告曰。誦4觀音經千遍可免。仍口授其經曰。觀世音。南無佛。與佛有因。與佛有縁。佛法相縁常樂我淨。朝念觀世音。暮念觀世音。念念從心起。念念不離心。既覺誦之不輟。忽唱停刑。後官至開府。年八十二

二十七年。王玄謨、北征し律を失い、蕭斌これを誅さんと欲す。沈慶之、諌(いさ)めて曰く「仏狸(太武帝の幼名)の威は天下を震わす。豈(あに)玄謨の能くする所ならんや。当(まさ)に戦将を殺すは徒(いたずら)に自ら弱める耳(のみ)、乃(すなわ)ち止むべし」と。初め玄謨、将(まさ)に殺されんとするに、夢に人告げて曰く「観音経を千遍誦すれば免るべし」と。仍(かさ)ねて其の経を口授して曰く、「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。既に之を覚誦し輟(や)めず。忽(たちま)ち唱うれば刑停(とどま)る。後に官、開府に至り年八十二

— 『仏祖統紀』巻第三十六 文帝(義隆高祖第三子) 元嘉二十七年 の条、(原文/訓読)

元嘉27年(450)、王玄謨は北へ攻め込んだが敗北し、蕭斌は玄謨を処刑しようとした。沈慶之は蕭斌を諌めて、「太武帝の威は天下に鳴り響いております。どうやっても玄謨ではかなわないでしょう。武将を殺すのは自国の戦力を弱くするだけです。処刑はお止めください」といった。玄謨は処刑されそうになったとき、夢の中で人から「観音経を千遍誦すれば助かるであろう」と告げられた。観音経も夢の中の人に口伝えで教えてもらった(その経文は以下の通りである)。 「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。 玄謨は常に観音経を唱えてやめようとしなかった。するとたちまち死刑執行が停止された。玄謨は官位が登り幕府を開ける(開府)までになって、八十二歳まで生きた。

— 同上、(口語訳)

この話は450年の事跡ということであるが、他に記載する古資料がないため信憑性は乏しく、『太平広記』、『太平御覧』ないし『仏祖統紀』撰述の時代に『十句観音経』が普及していたということを示唆するのみである。なおこの部分には未だ『十句観音経』という経題は現れていない。記述されるのは『仏祖統紀』のもっと後の部分で、ここには複数の霊験事例が記されている[9]。孫敬徳が唱えたのは『十句觀音經』とは別の『高王観世音経』であるともされる。

『高王観世音経』との関係 編集

『十句観音経』は布教のための一般書籍は別として、近年の主要な研究報告は、岡部和雄1987年[10]、桐谷征一[11]1990年[12]、田村俊郞[13]2011年[14]、山﨑順平2014年[15]と、いずれも『高王観世音経』の研究論文中に言及している。これらの説の要点を順に列挙する。

  • 岡部和雄は、『高王観世音経』が即『十句観音経』ではなく、『仏祖統紀』の著者である志磐その人が、『高王観世音経』を素材にして作成したものだと推定している。
  • 桐谷征一は、伝播のたびに肥大化する高玉観世音経系統と同時期に読誦千遍の霊験伝承と類似の表現を含む縮退した十句観音経系統という、二系統の存在を指摘し、更に両者と共通の表現を持つ敦煌文書S4456『救苦観世音経』が源流であると論じた。また小説集『談藪』では、この経文に題が付いていないが、『佛租統紀』に記す「十句観音経」と同流であることは明らかであり、『談藪』が成立したとされる隋ないし唐初には同経文が王玄謨の霊験説話とともに流行していたことが知られる。これを『佛租統紀』の「十句観音経」と比べると、第十句目の「念佛不離心」を「念念不離心」とする相違のみで、この相違については『談藪』の時代から『佛租続紀』の時代への流傳の過程で改訂されたものと判断している。さらに『高王觀世音経』が流行するようになった理由として、『佛租統紀』撰者の志磐が、この経が猥雑に増廣され、肥大化したことを難じ、「十句観音経」こそ「至簡経法」であり、在るべき姿と主張している[16][17]。桐谷は、肥大化していく高玉経系統と同時期に、読誦千遍の功徳の伝承を持ち類似の表現を含む縮退した十句経系統の、二系統の存在に注目し、更に両者の共通の表現を持つ敦煌文書S4456『救苦観世音経』が源流であると論じた[18]
  • 田村俊郞は桐谷説を補強し、類似関係を精査しアジア美術館収蔵の北斉のものと見なせる造像碑の上に、『高王観世音経』と『救苦観世音経』の原初形と恩われる簡潔な経典の2.種の『仏説観世音経』が共に刻まれていることから、『十句観音経』の更なる源流と『高王観世音経』との密接な繋がりを論じた。
  • 山﨑順平は教説を比較し、『高王観世音経』が直接観世音菩薩への帰依を説いていないのに対し、『十句観音経』は常に観世音を念ずるべしと説き、更に『救苦観世音経』にはいずれにもない地獄に於ける救済までが説かれ、『救苦観世音経』が両経の、あるいは『十句観音経』の源流だという説を否定している。

日本 編集

日本では、『延命十句観音経』の発見に関し、霊元天皇(1654 - 1732年)が譲位して法皇になったあと、最も霊験あらたかな経典を比叡山霊空律師(1652- 1739年)に探させた結果、霊空がこれを見出したという説話が流布している。しかしこの説話は江戸時代白隠慧鶴(1686 - 1769年)が『延命十句観音経霊験記』に寛文葵卯(1663年)の霊験譚として記載しているもの[19]以外に事例がないようである。しかしこの霊験譚の年は、1652年生まれの霊空は比叡山に上る前、霊元天皇も即位の年なので辻褄が合わない。白隠はこの霊験譚の真偽は気にもしなかった、と西田耕三は推測している[20]。 本経、すなわち『十句観音経』を重要視したのが白隠禅師であった[21]。白隠は同著において「此の経の霊験、老僧が身の上に於ても心も言葉も及ばざる有りがた事ども数多たびこれあり」として、十句観音経の功徳を讃える[22]。上記の他十余の説話を採り上げ、偽経といえどもこれだけ霊験があるのだからと、人々に唱えることを推奨した[23][注釈 8]。現在も白隠の再興した臨済宗を中心に、日常の読経や写経などに用いられている。また、常用の「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」は、短い偈文(世尊偈)部分のみでも500字を越え、一般信徒日常の読経としては長すぎるため、代用として十句観音経を読むことも行われており、鎌田茂雄など一部の禅僧はそれを薦めている。

注・出典 編集

注釈 編集

  1. ^ 「仏法僧縁」につくるのは『延命十句観音経』のみで、来歴に掲げる中国伝承の『太平御覧』『太平広記』『仏祖統紀』は「仏法相縁」につくる。
  2. ^ 『太平広記』は「常楽我情」につくる。
  3. ^ a b 白隠慧鶴『延命十句観音経霊験記』は「念念」を「念々」につくる。(明治28年 経世書院刊 末尾掲載の経文
  4. ^ 『太平御覧』は「念仏不離心」につくる。[1]
  5. ^ こばやし しょうせい(1876年 - 1937年)茨城県古川市出身。明治 - 昭和前期の真言宗僧侶。
  6. ^ 一切衆生は如来の智慧徳相を有し(仏の種を有す)、一切衆生は実在せる一切の諸仏と縁を持つ[4]
  7. ^ 「仏法相縁」であれば「仏法の相(認識されるもの即ち「境」が「認識されたすがた形」)は常楽我浄の悟へとつながります」となろう。
  8. ^ ただし白隠は読誦による功徳と現世利益に関して[24]「如上逐一枚擧する所の限りも無き十句經の靈驗、正眼に看來れば唯是世間住相有爲夢幻空華の談論取るに足らず。茲に一段眞正最妙最玄最も第一なる底の大靈驗有り、乞ふ試に之を論ぜん」と述べ[25]、「座禅しつつ十句観音経を念誦することで悟りに進め」と説く[26]

出典 編集

  1. ^ 『延命十句観音経講話』同愛叢書;第6輯 正信同愛会 1932年 デジタル化画像コンテンツ p.1
  2. ^ 王玄謨の説話の末尾に「玄謨が死刑を宥免しき。貴ぶべし、是尽く此経文の霊験なる事を。これより此経を延命十句経となづく。」/原田祖岳 校注『延命十句観音経霊験記 2版』大蔵出版 1979.4. 国立国会図書館デジタルコレクション デジタル化画像コンテンツ p.20
  3. ^ 西田耕三『霊空光謙の噂』「雅俗」3巻 九大雅俗の会 p.87-107 1996年 pdf p.102 – 105
  4. ^ 原田祖岳 1947, pp. 44–46.
  5. ^ 宋書 卷七十六 列傳第三十六 朱修之宗愨王玄謨
  6. ^ りほう 925 – 996年 宋史 卷二百六十五 列傳第二十四   中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:宋史/卷265
  7. ^ 『談藪』(だんそう)は逸書であるが、『太平広記』、『太平御覧』の記事からの輯佚がなされている。
  8. ^ 大正新脩大藏經Vol. 49 No. 2035(SATデータベース T2035_.49.0345b29 - 0345c08)
  9. ^ 宋文帝。將軍王玄謨將刑。夢人教念十句觀音經。遂得免。北齊武成。孫敬徳有罪當死。夢僧教誦經千遍。臨刑刀三折。宋嘉祐龍學梅摯妻失目。夢白衣教誦十句觀音經。雙目復明此經前後三驗(SATデータベース T2035_.49.0468b01 - 0468b05)
  10. ^ 岡部和雄「『十句観音経』の由来—とくに『高王観世音経』とのつながり—」仏教文化の諸相:桜井秀雄博士古稀記念論文集 p315-326, 1987-03 駒沢宗教学研究会 p105
  11. ^ キリヤ セイイチ、日蓮宗僧侶。
  12. ^ 桐谷征一『僞經高王觀世音經のテキストと信仰』法華文化研究 16号 1990年 p.1-67 pdf p.17下
  13. ^ タムラトシオ、1971年生、龍谷大学仏教文化研究所客員研究員(2018年現在)
  14. ^ 田村俊郞『中國南北朝時代における『高王觀世音經』とその展開:サンフランシスコ アジア美術館所藏經碑を手がかりに』東方宗教 日本道敎學會 編 (118), 1-31, 2011-11 日本道敎學會
  15. ^ 山﨑順平「『高王観世音経』の原初テキストについて ―南北朝から隋唐の諸本の比較検討から―」集刊東洋学 111号 2014年 P.41-42 pdf
  16. ^ 『僞經高王觀世音經のテキストと信仰』p.39-40
  17. ^ 述曰。此經止十句。即宋朝王玄謨。夢中所授之文。今市肆刊行。孫敬徳所誦者是。後人妄相増益。其文猥雜。遂使識者疑其非眞。又本朝嘉祐中。龍學梅摯妻失目使禱於上竺。一夕夢白衣人教誦十句觀音經。遂誦之不輟。雙目復明。清獻趙公刊行其事。大士以茲至簡經法。救人於危厄之中。古今可紀者三驗矣。可不信乎(佛祖統紀卷第三十六 武成帝河清2年(563年)の条/SATデータベース:T2035_.49.0357c21-c29)
  18. ^ 山﨑順平「『高王観世音経』の原初テキストについて ―南北朝から隋唐の諸本の比較検討から―」集刊東洋学 111号 2014年 pdf P.41-42
  19. ^ 「此経は忝なくも寛文葵卯の頃かとよ、人王百十二代霊元院法王様、院宣有って、比叡山霊空律師に命じ、いかにも功徳深からんず経を選び出し、上覧に備え候へと御勅使有しかば、霊空承り、深く大藏に入って精しく尋ね探て、此経を撰び書して以て進献す。則今の延命十句経これなり。」原田祖岳校注『延命十句観音経霊験記』2版 大蔵出版株式会社 1979年 デジタル化画像コンテンツ p.11
  20. ^ 『霊空光謙の噂』p. 105
  21. ^ 観音さま入門 1981, p. 149.
  22. ^ 原田祖岳 1947, pp. 13–20第二節 十句観音経と白隠禅師
  23. ^ 然るに此御經、世の人多く怪む者多し、大凡 五時八教の間には、華嚴部か、阿含部か、方等般若法華部か、五千四十八巻の中、何れを尋ねさがしても終ひに正しき出所なし。いかさま、是は必ず偽経ならんと、眉を皺むる人有よし、何れにもせよ、甚だ無知の穿鑿なり。爾知らずや、此経は漢土にては、 観世大士、法師の形を現じ玉ひ、孫敬徳と云し者に口づから授け玉ひ、我朝にては北野の御神正しくも沙門の形を現じ面のあたり授け玉ふ、豈疑ひの有るべきや、熟々考ふるに、彼北野の御神も、内密は即ち菩薩行本地十一面観世大士の御化身なるよし。蟠桃稿といへる双紙の面に分明なり、偽にせよ真にせよ斯ばかり靈驗ましまして、世上を利益し玉ふからには、近松文佐が作にもせよ、至道軒が説にもせよ、随分信仰申し、昼夜に読誦し、此御経の利益に依つて在家は家業繁栄し、火難盗難水難等を逃れ、万事目出度浮世を渡らば、上もなき吉兆ならずや。出家は次第に信心堅固、大道の渕源に徹し、常に勤めて大法施を行じ、大菩提を成就せん事、皆此経の功徳ならずや、武士は昼夜に忠勤を励まし、武術を精錬する間も片時も更に間断なく勤めで、竊に此經文を秘誦し、武運を養ひ頴気を増し、君を堯舜の君にし、民を堯舜の民にし、子孫は次第に繁榮し、王位を守護し万民を安撫し、御当家御代長久万歳々々を祈らば、是に過たる大忠節は是有べからず。たとえば彼(かれ)人蔘黄祇忍冬、莎蔘等の如き大妙薬の出所正しからず、来由明らかならずといふて、是を棄擲して可ならんや。只彼功能の難治の重症を治し、人の病苦を救ふをもつて貴としとすらくのみ、いかなる愚夫、かの出所を尋ね、来由を問ふに暇あらんや。/原田祖岳 校注『延命十句観音経霊験記 2版』p.16
  24. ^ 観音さま入門 1981, p. 151.
  25. ^ 白隠広録(2) 1902, p. 202原本113頁
  26. ^ 原田、十句観音経霊験記 1979, pp. 81–82.

関連文献 編集

参考文献 編集

  • 大法輪閣編集部編「松原泰道 観音さまの短いお経 ― 十句観音経・高王白衣観音経・般若心経―」『増補新装版 観音さま入門』大法輪閣〈大法輪選書〉、1981年3月。ISBN 4-8046-5026-1 
  • 原田祖岳『延命十句観音経講話』大蔵出版株式会社、1947年2月。ISBN 4-8043-3001-1 
  • 原田祖岳『延命十句観音経霊験記』大蔵出版株式会社、1979年4月。ISBN 4-8043-3005-4 
  • 松原哲明 『延命十句観音経を読む』、1996年 ISBN 433301798X
  • 松原哲明 『洗心 延命十句観音経―唱えれば幸せに』、1998年 ISBN 4805003219 ISBN 4805003642
  • ひろさちや 『現代人の心を救う四十二文字のお経―仏の教えのエッセンス「十句観音経」』、1998年 ISBN 4341171585
    • 『十句観音経入門』、1988年(ISBN 4341014323)の改題新装版。
  • 横田南嶺『祈りの延命十句観音経』円覚寺派管長による臨済宗の立場での啓蒙書、2014年 ISBN 4393144260

関連項目 編集

外部リンク 編集