十如是

『法華経』方便品に説かれる因果律をいう。 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟

十如是(じゅうにょぜ)とは、『法華経』方便品に説かれる因果律をいう。十とは

  • 相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等(そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)

をいう。如是とは是(かく)の如(ごと)し(そのようである、という意)のこと。また十如とも、諸法実相ともいわれる。

なお、この十如是は鳩摩羅什が訳出した法華経にのみ見られるもので、他の訳には見当たらないが、梵文(サンスクリット語)原典には存在する。

この十如是は、後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である。

概説 編集

十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法をいう。

天台大師智顗は「是の相も如なり、乃至、是の報も如なり」と「是の如きの相、乃至、是の如きの報」と「相も是に如し、乃至、報も是に如す」として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したので、これを三転読文(さんてんどくもん)といわれる。

法華経本文(抜粋) 編集

鳩摩羅什が訳した本文によると、

仏の成就じょうじゅせる所は、第一の希有けうなる難解なんげの法にして、ただ、仏と仏のみ、すなわく諸法の実相をきわめ尽くせばなり。う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり

とある。これを十如是という。

原典語訳 編集

梵文原典から日本語に翻訳すると次の通り。

如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ — 岩本裕による口語訳出

竺法護訳『正法華経』では以下の通り。「何等法・云何法・何以法・何相法・何体法」(法華論はこれをまとめて五何法という)


この十如是は、梵文原典にはあるが、また竺法護の「正法華経」、そして世親の「法華論」にも見当たらない。鳩摩羅什が訳出した法華経(妙法蓮華経)と、鳩摩羅什訳を元に提婆達多品、薬草喩品の後半、普門品の偈頌を増広した闍那崛多達磨笈多共訳の「添品妙法蓮華経」にのみ見出される。

これに近いものが『大智度論』巻32にある。

復(ま)た次に、一一の法に九種有り。一には体有り。二には各各法有り、眼・耳は、同じく四大の造なりと雖(いえど)も、而(しか)も眼のみ独り能く見、耳には見る功なきが如し。又火は熱を以て法と為し、而して潤おすこと能わざるが如し。三には諸法各の力有り、火は焼くことを以て力と為し、水は潤すことを以て力と為すが如し。四には諸法は各の自ら因有り。五には諸法は各の自ら縁有り。六には諸法は各の自ら果有り。七には諸法は各の自ら性有り。八には諸法は各の限礙有り。九には諸法は各の開通の方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法は凡て九事有り。 — 『大智度論』巻32

また、『大智度論』巻24には次のように記されている。

仏は是の衆生の種種の性相は、所謂趣向する所に随って、是くの如く偏に多くを知りたまう。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩悩。如是礼法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。 — 『大智度論』巻24

したがって、鳩摩羅什が大智度論の「体・法(作)・力・因・縁・果(果・報)・性・限礙(相)・開通方便(本末究竟等)」などの九種法を変形展開し、十如是としたと推定されている[1]

天台宗で言う一念三千は十如是から派生した教理であるから、十如是が鳩摩羅什の独自の増広によるものだとすると、法華経の教説それ自体に基づく教理ではないことになる。他方で、一念三千は天台宗の重要な教理であるとはされているが、実際には智顗がその全著作中でも『摩訶止観』(五ノ上)で「此三千在一念心 若無心而已」として一度だけ言及したものを湛然が智顗自身の用いていない「一念三千」という語・名目にまとめた上で、それを「終窮・究竟の極説」とした。もし一念三千という教理に問題があるとしても、天台教学や日蓮教学は、智顗自身の教学を損なうものではないとしている。

しかし、智顗は鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において「三転読文」を主張する。すなわち、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、たとえば「如是相 如是性……」を「如是相/如是性/……」「(如)/是相如/是性如/……」「(如是)/相如是/性如是/…」と3通りに読み、それぞれに「空・仮・中」と意味付けを行っている。これは十如是という鳩摩羅什が梵文をそのように(増広しつつ)翻訳したその漢字の列を操作して得たものである。竺法護訳の該当箇所「何等法 云何法……」(五何法)については、このようなものはない。

脚注 編集

  1. ^ 本田義英『仏典の内相外相』383頁

参考文献 編集

関連項目 編集