南大阪電気鉄道[1](みなみおおさかでんきてつどう)は、かつてあった鉄道事業者大阪高野鐵道(現:南海高野線)から大阪鐵道(2代目)(現:南大阪線)の南側を沿うような形で敷設免許を取得していった。

歴史 編集

  • 1917年大正6年):河南鐵道で社長が相次いで交替するなか、大阪市内への延伸に積極的だった越井社長が就任する。
  • 1918年(大正7年)3月:国鉄の枝線的な存在から脱却すべく大阪天王寺駅まで鉄道敷設免許を申請する[2]
    • 6月:大阪天王寺駅まで鉄道敷設免許が付与され、道明寺分岐案として路線延長に取り掛かる[3]
    • 10月:沿線にある村の地区で鉄道敷設ルートをめぐり北部側と南部側で運動が起きる。河南鐵道の株主も二派に分裂する。
  • 1919年(大正8年)3月8日:臨時株主総会が開催され資本金増資を決議する。国鉄の枝線的脱却も考え、大阪鐵道(2代目)に社名変更
  • 1920年(大正9年)3月20日:南大阪電気鉄道「以下、南大阪電鉄」が堺線である堺~高田[4](31.4㎞)の敷設免許を取得する。
  • 1923年(大正12年)4月13日:道明寺 - 大阪天王寺が開通し旅客輸送営業開始。
    • 2月21日:南大阪電鉄が浅香線である香ケ丘 - 金岡の延長敷設免許を取得する。
    • 5月22日:南大阪電鉄が桜井線である高田 - 桜井(12.7キロメートル〈km〉)の敷設免許を取得する。
  • 1924年(大正13年)3月18日:南大阪電鉄が丹比線である天王寺堀越 - 埴生の延長敷設免許を取得する。
  • 1926年(大正15年)2月5日:南大阪電鉄の保有する免許路線のうち古市 - 高田 - 桜井 (30.5 km) を大阪鐵道に譲渡する契約をした。
    • 4月15日:大阪鐵道と南大阪電鉄の合併契約が締結。
    • 11月1日:大阪鐵道に吸収合併され消滅。
  • 1927年(昭和2年):大阪鐵道の増資、株式6万株[5]大阪電気軌道[6]が引き受ける(持株比率14.6 %

大和延長線の出資により大軌との関わりが強くなった。

やがて大和延長線により大阪鐵道は建設費高騰で負債を抱えるようになり、大軌の傘下に入ることになった。

国家総動員法による合併が避けられない事を懸念した大阪鐵道は、鉄道省からの合併命令前に関急との合併を承認した。

かつて保有していた用地(敷設免許取得路線)・引き継がれた用地(譲渡後) 編集

南大阪電気鉄道 編集

  • 堺線:堺 - 高田 (31.4 km)
  • 浅香線:香ケ丘 - 金岡
  • 桜井線:高田 - 桜井 (12.7 km)
  • 丹比線:天王寺堀越 - 埴生

引き継いだ路線および設備 編集

  • 浅香駅 - 南大阪電鉄が吸収合併されたのち、浅香山の土地(約6万坪)は大阪鐵道が所有するものになっていた。しかしながら所有したままでは困るので呉羽紡績に譲渡、それに伴い沿線開発で沿線を走る阪和電鉄に交渉を持ち掛けて浅香駅を設置。
  • 古市[8] - 高田 - 桜井 (30.5 km) 当初より短縮した形で南大阪線の古市 - 久米寺(橿原神宮前)の区間が残っている。

計画していたルート(未成線) 編集

車両 編集

敷設免許の用地取得によるものだったので車両は存在しない。

脚注 編集

  1. ^ 古い文章では南大阪電氣鐵道株式會社
  2. ^ ※当時は古市駅で分岐する案と道明寺駅で分岐する案で意見が分かれていた
  3. ^ ※実地調査の結果、玉手山遊園地や広く信仰を集めている天満宮(道明寺天満宮)があることから道明寺ルートに決まる
  4. ^ 現在の高田駅とは場所が異なっている。 奈良縣北葛城郡磐園村
  5. ^ 古市駅から久米寺駅へ向けての大和延長線であり、20万株の投資では免許路線の工事費が足らなかった。不足分の6万株を大阪電気軌道から融資を受ける。
  6. ^ 古い文章では大阪電氣軌道株式會社
  7. ^ 古い文章では阪和電氣鐵道株式會社
  8. ^ 当初の古市駅とは位置が少し異なっている。近商ストア前の線路部分に駅ホームと駅舎が位置していたホームの延長および橋上化に伴い、現在の位置となる。