南部信鄰

日本の江戸時代後期の大名。江戸幕府旗本南部信喜の子で、陸奥七戸藩初代藩主。従五位下播磨守

南部 信鄰(なんぶ のぶちか)は、江戸時代後期の旗本、のち陸奥国七戸藩盛岡新田藩)の初代藩主官位従五位下播磨守

 
南部信鄰
時代 江戸時代後期
生誕 安永5年11月1日1776年12月11日
死没 文政4年11月25日1821年12月19日
別名 主税(通称
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府旗本寄合席
主君 徳川家斉
陸奥七戸藩
氏族 南部氏
父母 南部信喜南部信起の娘
兄弟 信鄰山口直温(釆女)
正室水野忠敞の娘
継室近藤寿用の娘
信誉前田利和継室
テンプレートを表示

生涯 編集

安永5年(1776年)11月1日、小普請支配を務めた石高5000石の旗本・南部信喜(肥前守)の子として誕生。

寛政12年(1800年)、父の死去により家督を継ぐ。なお、南部政信南部重信の子)を祖とする旗本南部家当主としては5代目にあたる。文政2年(1819年)12月、父の従兄弟で本家盛岡藩主・南部利敬より、幕府の許可の下に加増を受けて、内分ながら1万1000石の定府大名として盛岡新田藩(のちの七戸藩)を立藩した。

文政3年(1820年)に利敬が死去し、はとこで幼少の南部吉次郎(利用)が本家を継承したので、その補佐のために幕府の許可をもらって盛岡に下向して、盛岡藩政に参画する。ところが、吉次郎利用は文政4年(1821年)8月、将軍への御目見を済ませないまま不慮の死を遂げた。藩重役たちは、比較的年齢も近く、風貌もよく似ていた善太郎を身代わりに立て「利用」として擁立し、9月に善太郎が本家家督を継いだ。そして11月15日に11代将軍・徳川家斉と謁見して藩主として認められたが、その直後に信鄰は46歳で死去した。なお、この件に信鄰がどこまで関わったかは不明である。

家督は長男・信誉が継いだ。

系譜 編集

父母

正室、継室

子女

脚注 編集

  1. ^ 南部利幹の次男
  2. ^ 登助

参考文献 編集