双考経[1](そうこうきょう、: Dvedhāvitakka-sutta, ドヴェーダーヴィタッカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第19経。『二種考経』(にしゅこうきょう)とも[2]

類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第102経「念経」等がある。

釈迦が、比丘たちに2種類の考えについて説いていく。

構成 編集

内容 編集

この経文は、ゴータマ・ブッダが自身の修行の出発点を語ったものとなっている。ゴータマは、在家の当時、苦行の修行をする以前に、菩薩としての修行を始めていたことが語られている。 出家してから、苦行しかしていないと思われがちであるが、ゴータマの意識の中では、菩薩として修行をしていたとされている。ゴータマは、菩薩としての修行中に、人間の中に常に湧き上がってくる思念について、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている [3]。ゴータマは出家する前にすでに初禅の境地を体得していたとされている[4]。これは、初禅の段階にて、止観によって、善なる思いと悪なる思いを弁別し、正見のありかたを育んだということのようである。ゴータマの修行のおおまかな流れとしては、出家前に初禅の段階を会得し、出家して無所有の境地等を学び、苦行に転じ、やがて、初禅の境地に帰り、四禅の成道の道にたどりついた、と言うことのようである[5]

解脱ということには、欲望の漏煩悩と、生存(有)の漏煩悩、無明の漏煩悩よりの解脱ということがあるとされている。初禅において止観されたのは、内側から悪い道に行こうとする心の傾向であるといえる。その悪い道は、外側にも存在し、それは、邪悪な見方、邪悪な思い、邪悪な言葉、邪悪な業務、邪悪な生活、邪悪な励み、邪悪な思念、邪悪な精神統一(定)であるとされている。そして、諸々の衆生をとりまく存在として、魔、悪魔と、如来、阿羅漢、正等覚者があるとされる。魔、悪魔は、衆生のためを欲せず、利益を欲せず、束縛からの安穏を欲しない。衆生が、喜びに貪り染まったり、無明のうちにとどまったりするように画策しているとしている。如来、阿羅漢、正等覚者は、衆生のためを欲し、利益を欲し、束縛からの安穏を欲しているとされている。この経には、八正道の道が開かれているとされている[6][7]。 初禅の段階が深まってゆくと、自らの内なる世界と、諸々の衆生をとりまく存在に対する理解が深まり、正見が確立し、八正道の道が広がってゆくようである。

日本語訳 編集

  • 『南伝大蔵経・経蔵・中部経典1』(第9巻) 大蔵出版
  • 『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇I』 片山一良訳 大蔵出版
  • 『原始仏典 中部経典1』(第4巻) 中村元監修 春秋社

脚注・出典 編集

  1. ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村
  2. ^ 『パーリ仏典』片山
  3. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思い P282  前書き  春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  4. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』第36経 身体の修行と心の修行ー マハ―サッチャカ経 P549 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳
  5. ^ 悟りの直前には、マラーによる試練があったとされる。そのことを考えた場合、マラーの存在はいきなり出てきたわけではなく、初禅の体得の段階から止観されてきたものと思われる。
  6. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』 第19経 二種の思いー双考経 P292 春秋社2004年 中村元監修 及川真介訳
  7. ^ 如来が、束縛からの脱出という、衆生の利益の導きをする存在であり、魔は、衆生全体に対して、彼らが喜びを貪り喜びに、染まったり、無明のうちにとどまったりするように、内外から画策しているとする思想がここでは述べられている。

関連項目 編集

外部リンク 編集