双頭の鷲(そうとうのわし、ギリシア語: Δικέφαλος αετόςドイツ語: Doppeladler英語: Double-headed eagle)とは、鷲の紋章の一種で、頭が2つある紋章

セルジューク朝の紋章(11–12世紀)
1370年代に描かれた、教会会議を主宰する東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス。彼の足元に金の双頭の鷲が描かれている。
ルーマニアの教会の壁掛け(1493年創建、ボルゼシュティの主の御母生神女就寝教会(ルーマニア語)

主に東ローマ帝国神聖ローマ帝国と、関連したヨーロッパ国家貴族などに使用された。現在でもセルビアアルバニアロシアなどの国章[1]や、ギリシャ正教会などで使用されている。

歴史 編集

「双頭の鷲」自体は古来より存在する紋章で、知られている最古の図像は、紀元前3,800年頃のシュメールラガシュの都市神ニンギルスに関するものである。一説には、「双頭の鷲」と「単頭のライオン頭の鷲」は、同じものを表していると考えられている。紀元前32世紀のエジプト[注釈 1]、20世紀から7世紀の間のシュメールや、現在のトルコ地域のヒッタイトでも使用された[要出典]。また11-12世紀のセルジューク朝でも使用された。タキシラパキスタン)の世界遺産に指定されたシルカップの寺院遺跡に浮き彫りが残る[2][3]南アメリカにはメキシコに伝わる紋章の例がある[4]

「ローマ」の象徴として 編集

ローマ帝国国章は単頭の鷲の紋章であったが、その後も帝国の権威の象徴として使われ続け[注釈 2]、13世紀の東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝時代に「双頭の鷲」の紋章が採用された。この紋章は元々はパレオロゴス家の家紋との説もある[要出典]。東ローマ帝国における「双頭」は、「西」と「東」の双方に対するローマ帝国の支配権を表したが、実際には「西」すなわち過去の西ローマ帝国領土の支配権を既に失いつつある時代に相当する[要出典]

「ローマの後継者」の象徴として 編集

「東ローマの後継者」の象徴として 編集

東ローマ帝国の「双頭の鷲」は、ギリシャ正教会コンスタンティノープル総主教庁セルビアアルバニアロシアなどに継承された。セルビアの王は「ツァリ」「バシレイオス」と「皇帝」を名乗り東ローマに対抗した。セルビアの「双頭の鷲」の多くは白色である。ロシアは東ローマ滅亡後に、皇帝家の皇女を妃に迎えたことを根拠に東ローマの後継者を自任し「ツァーリ」「インペラトール」と「皇帝」を名乗った。

「西ローマの後継者」の象徴として 編集

またローマ帝国の継承を自負する神聖ローマ帝国ハプスブルク家の紋章となり、更にオーストリア帝国[5]オーストリア=ハンガリー帝国[5]ドイツ国などに継承された[6]

1472年には東ローマ帝国の姫ゾイ・パレオロギナを迎えたロシア帝国も「双頭の鷲」を採用した。東ローマ帝国滅亡後は、ロシア帝国もローマ帝国の後継を自負し、その「双頭」は、「東」(アジア)と「西」(ヨーロッパ)に渡る統治権を表した。また16世紀にハプスブルク家出身で神聖ローマ帝国皇帝となったスペイン国王カール5世(カルロス1世)によりスペインの国章にも一時使用された。これらハプスブルク家関連の「双頭の鷲」の多くは黒色である。

20世紀での廃止と21世紀での復活 編集

20世紀前半に、ロシアはロシア革命によりソビエト連邦に、セルビアやドイツ東部(東ドイツ)は第二次世界大戦の結果として社会主義国となり、「双頭の鷲」は皇帝の象徴として国章から削除された[7]。社会主義国では孤立するアルバニアのみ掲げた。しかし1990年代のソビエト連邦の崩壊東欧革命により、それぞれ復活された。

またオーストリアは1918年の共和政以降の国章は「双頭」ではなく単なる「単頭」の鷲である。またワイマール共和国ドイツ連邦共和国も「双頭」ではなく「単頭」の鷲を国章に採用している。

双頭の鷲のジェスチャー 編集

左右の手の甲を交差させ左右の親指が鷲の双頭、のこる左右の指が翼を表す「双頭の鷲ジェスチャー」がある。2018 FIFAワールドカップサッカースイス代表の選手でコソボ出身2人グラニト・ジャカジェルダン・シャチリが試合中に「双頭の鷲のジェスチャー」をしたために「試合中の政治的行為」とみなされたことがある。双頭の鷲がアルバニアセルビアの国章に使用されており、コソボ問題に関する政治主張とみなされたためである[8][注釈 3]

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東ローマ帝国関連 編集

ロシア帝国関連 編集

神聖ローマ帝国関連 編集

類似の例 編集

参考文献 編集

主な執筆者の順。

 
下エジプト(ナカダ3期
  • 外務省調査局『ソ連の話』霞関会、東京〈世界の話 第3輯〉、1949年、6-9(0010.jp2–0011.jp2)、12(0013.jp2)頁。doi:10.11501/1169203全国書誌番号:45041481 
    • 「第1章ソ連の生れるまで§4. 双頭の鷲」
    • 「同§6. 赤旗ひるがえる」
  • 清水威久「ソ連邦の歴史的考察」『ソ連邦とロシア人』河出書房〈名市民文庫 ; 第131〉、1952年、57-75頁。doi:10.11501/2993751  国立国会図書館デジタルコレクション
    • 「1. 双頭の鷲から赤旗まで」58頁(0032.jp2)
    • 「双頭の鷲飛び來る」(0032.jp2) 「ロマノフ朝と革命運動」(0034.jp2)
  • 造幣局 編「澳地利」『各国貨幣の模様調査資料』造幣局、1930 昭和5年、102-108、112頁(96–101コマ)頁。 国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:1465903
    • 1753年、104-105頁(97–98コマ):D. グルデン・ターラー……背面、帝国の雙頭の鷲。銘文。「ロンバルデー、ベネチエン、ダルマチエン、
    • 1780年、102-103頁(96コマ)C. マリア・テレジア・ターラー(いわゆる東洋ターラー)……王冠を被れる雙頭の鷲。銘文。 ARCHID 「墺地利大公妃、ブルグント公夫人、チロール伯爵夫人
    • 1800年、107-108頁(98–99コマ):H. 3クロイチェル……數字「33」を記せる雙頭の鷲、鑄造年号を左右に「18」と「00」とに分つ。
    • 1860年、107頁(98コマ):G. 4クロイチェル……表面、王冠を被れる雙頭の鷲。銘文。 K.K. OESTERREICH
    • 1892年、112頁(101コマ):N. 1ヘラー……表面、雙頭の鷲、銘文無し。背面、飾模様
  • 二村久則、川田玲子「メキシコ紋章《鷲・サボテン・蛇》」(pdf)『言語文化論集』第21巻第2号、名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2000年3月8日、209-232頁、CRID 1390290699633146112doi:10.18999/stulc.21.2.209ISSN 0388-6824  国立国会図書館デジタルコレクション NDLJP:8690977
  • フレッチャー(Fletcher, Baniste) 著、飯田喜四郎 監訳、片木篤ほか 訳「シルカップ、双頭の鷲の祠堂」、ダン・クリュックシャンク(Cruickshank, Dan) 編『フレッチャー図説世界建築の歴史大事典 : 建築・美術・デザインの変遷』西村書店東京出版編集部、2012年11月、799頁。 
  • リヒャルト・ワーグナー「 (19)『双頭の鷲の旗の下に』(参考曲1)」『小学生の音楽4 観賞用CD』教育芸術社、2002年3月。国立国会図書館書誌ID:000004027188  [録音資料]:NCS-1024:平成14–16年度用:録音ディスク1枚

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 英語版の記事ファラオの一覧(英語)の下エジプトの項に、類似の図案(ナカダ3期)を確認できる。
  2. ^ 一説には、イサキオス1世コムネノスが「単頭の鷲」を故郷アナトリアの聖獣である「双頭の鷲」に変更させたとする言い伝えがある[要出典]
  3. ^ なお開催国ロシアも国章は双頭の鷲である。

出典 編集

  1. ^ 外務省 1949, pp. 6–9, 「第1章ソ連の生れるまで§4. 双頭の鷲」
  2. ^ タキシラ”. www.saiyu.co.jp. パキスタンみどころ(観光)MAP. 西遊旅行. 2023年11月23日閲覧。
  3. ^ フレッチャー 著 & クリュックシャンク 編, p. 799, 「シルカップ、双頭の鷲の祠堂」
  4. ^ 二村 & 川田 2000, pp. 209–232
  5. ^ a b 造幣局 1930, pp. 102-108、112(96–101コマ)
  6. ^ ワーグナー & 教育芸術社 2002, p. (19), 『双頭の鷲の旗の下に』(参考曲1)
  7. ^ 外務省 1949, pp. 12, 「§6. 赤旗ひるがえる」
  8. ^ サッカー : スイス逆転勝ち立役者、ジャカとシャキリ“双頭の鷲ジェスチャー”の意味」『スポーツ報知』、2018年6月23日。2023年11月23日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集