名人戦 (将棋)

名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社朝日新聞社共催(2007年度から)、大和証券グループ協賛(2005年度から)の将棋棋戦であり、名人と挑戦者とで行われる対局(七番勝負)のこと。名人戦の予選は順位戦であり、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。名人戦七番勝負の勝者には、将棋界で最も格式と歴史のある「名人」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。

江戸時代以来、将棋の名人世襲制(ただし血縁絶対ではない)であったが、日本将棋連盟が1935年に「昭和12年(1937)に300年続いた一世名人を廃する」と発表した。2年後の1937年に十三世名人の関根金次郎が世襲制に異を唱えて声明書を出して名人位を返上。これにより大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、1937年に短期実力制名人位制度が開始された。

しくみ

A級順位戦の優勝者が名人戦挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。

A級順位戦

詳しくは順位戦の項を参照のこと。持ち時間は各6時間。

名人戦七番勝負

名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。

持ち時間は各9時間(将棋界で最長)で、2日制で実施される。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは名人戦だけである。

挑戦者決定方法の変遷

当初は全八段の棋士による挑戦者決定リーグ戦を2年がかりで行っていたが、1946年から開始された順位戦と連動するようになった。

順位戦創設以前

第1期(1935-1937年)
八段の全棋士による特別リーグ戦と、その他の棋戦の総合点で順位を算出する(勝敗や段位差によって点数が定められた)。1位と2位の棋士が六番勝負を行い、勝者が名人となるが、1位と2位の点差が8点を越えるときは六番勝負を行わずに1位の棋士が名人となり、六番勝負の結果が同率のときも1位が名人となる。
特別リーグの当初の参加者(八段)は、土居市太郎大崎熊雄金易二郎木見金治郎花田長太郎木村義雄金子金五郎の7名であったが、神田辰之助の参加権(八段昇段)を巡って日本将棋連盟(旧)が分裂する騒動と再統一があり、結果として神田と萩原淳の2名を新八段として加えた9名のリーグとなった(記事「神田事件 」を参照)。
リーグ戦の結果、1位の木村が2位の花田に8.1点の差をつけ、六番勝負は実施されず木村の名人位獲得となった。
第2期(1937-1940年)
七段の棋士も挑戦者決定リーグに参加できるようになる。まず、七段の全棋士によるリーグ戦を行い、この勝者が挑戦者決定リーグに参加できる。八段全棋士(阪田三吉を含めて8名)と七段リーグの勝者によるリーグ戦によって挑戦者を決定する。挑戦者決定リーグは1次と2次に分かれ、1次リーグで1勝以下の成績のものは2次リーグに参加できない。
土居市太郎が1次・2次リーグとも全勝で挑戦権を得た。将棋大成会(現在の日本将棋連盟)と絶縁状態であった阪田が「八段格」でリーグに参加したが、合計で7勝8敗の成績となっている。
第3期(1940-1942年)
八段の棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名から挑戦者を決定した。
まず12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行う。1位3名(土居市太郎・神田辰之助・渡辺東一)と2位のうち敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田正夫)により、挑戦者決定リーグを行った結果、神田が挑戦者となった。
第4期(1942-1944年)
参加棋士16名(八段12名と七段以下の予選を勝ち抜いた4名)がトーナメントを行い、勝者が「予備資格者」として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の手合いで三番勝負を戦う。三番勝負を勝ち越した場合のみ、名人挑戦の資格を得る。
この形式による予備資格者選出および名人との三番勝負を4度行い、複数の挑戦資格者が出た場合はプレーオフを行うこととなっていたが、4度とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ずに木村の名人防衛が決定した。
  1. 木村義雄 2-0 萩原淳
  2. 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
  3. 木村義雄 2-0 花田長太郎
  4. 木村義雄 2-0 坂口允彦
第5期(1944年)
予選を廃止し、近年の成績により7名による挑戦者決定戦となったが、戦局激化のため途中で中止され、木村の名人防衛の決定がなされる。

順位戦創設以降

第6期(1947年)
前年から順位戦が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
第7期(1948年) - 第9期(1950年)
順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
第7期では、第2期順位戦でB級七段だった大山康晴がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
第10期(1951年)以降
A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められ、現在までほぼ同じ形式を踏襲している。

永世名人

名人位を通算5期以上獲得した棋士は、引退後、永世称号である永世名人を名乗ることができる。1952年に、日本将棋連盟が規約を改正して制定した。他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。代数は世襲制の数字を引き継いだため、十四世からとなっている。

この規定による永世名人は木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、永世名人の資格を持つ棋士は谷川浩司(引退後に十七世名人襲位予定)、森内俊之(引退後に十八世名人襲位予定)、羽生善治(引退後に十九世名人襲位予定)である。木村は1952年の名人陥落時に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら「十五世名人」を名乗ることを許されていた。2007年11月、中原も名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。

歴代七番勝負・A級順位戦

名人戦七番勝負で、○●は名人から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋赤い着色は七番勝負の勝者。

A級順位戦リーグ表で、各期の順位は成績順ではなくリーグ表順位(当期成績は次期のリーグ表順位に反映される)。◎は名人挑戦者、▼は降級、青い着色は休場者。また、第2期 - 第4期の「B級優勝」は、A級成績上位3名とともに名人挑戦者決定戦進出。

名人戦の期と順位戦の期は第36期に合わせられた。順位戦には第31期 - 第35期が存在しない。

名人戦七番勝負 A級順位戦リーグ表 備考
年度 名人 勝敗 挑戦者 年度 1位 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位 9位 10位 (11位) (12位)
1 1937 木村義雄 八段9名のリーグ戦で最初の実力制名人を決定。参加者は、木村雄花田土居神田辰金子萩原木見大崎(成績順)。
2 1940 木村義雄 ○○千千●○○ 土居市太郎 *9名のリーグ戦(土居、金、花田、金子、神田辰、萩原、斎藤、阪田渡辺東)で、土居が挑戦権を獲得。
3 1942 木村義雄 ○○○○ 神田辰之助 *12名(4名×3)で予選リーグ。決勝リーグ(土居、神田辰、渡辺東、塚田正)で神田辰が挑戦権獲得。
4 1944 木村義雄 *予備資格者4名(萩原、大野源、花田、坂口)が木村との予備手合を行うも、挑戦資格を得ず。
5 1945 木村義雄 *戦争のため挑戦者決定戦(花田,金子,萩原,坂口,塚田正,大野,加藤治)は途中で中止。
6 1947 木村義雄 ○○持●●千●千● 塚田正夫 1 1946 八段14名(塚田正,大野源,萩原,土居,加藤治,坂口,花田,村上,渡辺東,小泉,金,,斎藤,金子
7 1948 塚田正夫 ●○○●千○○ 大山康晴 2 1947 木村雄 大野源 萩原 土居 加藤治 坂口 升田 花田 村上 B級優勝 大山
8 1949 塚田正夫 ○●○●●(五番勝負) 木村義雄 3 1948 升田 大野源 大山 土居 丸田 木村雄 加藤治 北楯 萩原 松田辰 坂口 B級優勝 五十嵐
9 1950 木村義雄 ○○●●○○ 大山康晴 4 1949 塚田正 大山 升田 丸田 大野源 北楯 五十嵐 高島一 原田 松田辰 坂口 B級優勝 高柳
10 1951 木村義雄 ○●○○●○ 升田幸三 5 1950 大山 升田 丸田 塚田正 高島一 五十嵐 大野源 高柳 板谷四 南口 坂口 松田辰
11 1952 木村義雄 ○●●●● 大山康晴 6 1951 升田 大山 丸田 坂口 高柳 塚田正 板谷四 原田 松田茂 荒巻 松田辰
12 1953 大山康晴 ○○●○○ 升田幸三 7 1952 升田 丸田 塚田正 板谷四 原田 松田茂 花村 松下 小堀 高柳 松田辰 木村引退
13 1954 大山康晴 千○○○●○ 升田幸三 8 1953 升田 塚田正 松田茂 丸田 原田 花村 小堀 南口 大野源 高柳
14 1955 大山康晴 ○●○○●○ 高島一岐代 9 1954 升田 塚田正 大野源 花村 松田茂 丸田 原田 高島一 松浦卓
15 1956 大山康晴 ○○○○ 花村元司 10 1955 高島一 塚田正 大野源 花村 松田茂 原田 松浦卓 松下 五十嵐 升田
16 1957 大山康晴 ●○●●○● 升田幸三 11 1956 花村 升田 松田茂 原田 五十嵐 高島一 塚田正 二上 坂口
17 1958 升田幸三 ○○○持●●○ 大山康晴 12 1957 大山 塚田正 五十嵐 花村 原田 二上 坂口 大野源 丸田
18 1959 升田幸三 千○●●●● 大山康晴 13 1958 大山 大野源 丸田 五十嵐 二上 塚田正 花村 高島一 加藤一
19 1960 大山康晴 ●○○○千○ 加藤一二三 14 1959 升田 塚田正 大野源 丸田 二上 高島一 加藤一 熊谷 加藤博
20 1961 大山康晴 ○○○●○ 丸田祐三 15 1960 加藤一 塚田正 加藤博 高島一 大野 丸田 二上 花村 松浦卓 升田
21 1962 大山康晴 ○○○○ 二上達也 16 1961 丸田 加藤博 二上 高島一 花村 塚田正 大野源 芹沢 廣津 升田 高島引退
22 1963 大山康晴 ○○○●○ 升田幸三 17 1962 二上 升田 丸田 芹沢 廣津 花村 大野源 加藤一 熊谷 塚田正
23 1964 大山康晴 ●○○●○○ 二上達也 18 1963 升田 二上 大野源 加藤一 丸田 熊谷 塚田正 加藤博 五十嵐
24 1965 大山康晴 ○○○●○ 山田道美 19 1964 二上 升田 加藤一 丸田 塚田正 大野源 加藤博 五十嵐 松田茂 山田
25 1966 大山康晴 ●●○○○○ 升田幸三 20 1965 山田 加藤博 升田 松田茂 丸田 二上 塚田正 加藤一 熊谷 有吉
26 1967 大山康晴 ○○○●○ 二上達也 21 1966 升田 山田 加藤博 二上 丸田 塚田正 有吉 松田茂 花村
27 1968 大山康晴 ○○○○ 升田幸三 22 1967 二上 加藤博 山田 丸田 有吉 松田茂 花村 塚田正 加藤一 内藤 升田
28 1969 大山康晴 ●○○●●○○ 有吉道夫 23 1968 升田 山田 二上 丸田 有吉 花村 内藤 加藤博 大友 関根茂 塚田正
29 1970 大山康晴 ○●○○○ 灘蓮照 24 1969 有吉 升田 山田 丸田 加藤博 二上 花村 塚田正 加藤一
30 1971 大山康晴 ○●●○●○○ 升田幸三 25 1970 有吉 升田 加藤一 花村 二上 丸田 内藤 中原 塚田正 山田死去
31 1972 大山康晴 ●○○●○●● 中原誠 26 1971 升田 二上 加藤一 有吉 内藤 中原 丸田 塚田正 原田 米長 中原全勝
32 1973 中原誠 ○○○○ 加藤一二三 27 1972 大山 升田 米長 二上 内藤 原田 丸田 加藤一 有吉 佐藤大 大内
33 1974 中原誠 ●○○●○●○ 大山康晴 28 1973 加藤一 大山 米長 二上 内藤 丸田 有吉 佐藤大 関根茂 塚田正 升田
34 1975 中原誠 ●○○千●●○持○ 大内延介 29 1974 大山 内藤 二上 関根茂 米長 有吉 塚田正 加藤一 板谷進 大内 升田
35 1976 中原誠 ○●●○○●○ 米長邦雄 30 1975 大内 大山 升田 米長 板谷進 二上 有吉 加藤一 桐山 熊谷
1977 主催紙移行問題が長引いたため、行われず。
36 1978 中原誠 ●○●○千○○ 森雞二 36 1977 米長 大山 有吉 二上 升田 板谷進 加藤一 桐山 勝浦 森雞
37 1979 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 37 1978 森雞 勝浦 米長 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 大内 花村 升田
38 1980 中原誠 ○●持○○○ 米長邦雄 38 1979 米長 森雞 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 升田引退
39 1981 中原誠 ○○○●○ 桐山清澄 39 1980 米長 大山 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 木村徳 森安秀
40 1982 中原誠 持○●○●千●○千● 加藤一二三 40 1981 桐山 米長 勝浦 大山 加藤一 内藤 石田 森安秀 大内 二上
41 1983 加藤一二三 ●●●○○● 谷川浩司 41 1982 中原 森安秀 桐山 米長 大山 内藤 大内 二上 森雞 谷川
42 1984 谷川浩司 ○○○●○ 森安秀光 42 1983 加藤一 中原 桐山 米長 大山 内藤 森雞 森安秀 青野 淡路
43 1985 谷川浩司 ●●●○○● 中原誠 43 1984 森安秀 加藤一 大山 森雞 中原 桐山 米長 青野 勝浦 田中寅
44 1986 中原誠 ○○●○○ 大山康晴 44 1985 谷川 森安秀 森雞 米長 勝浦 桐山 加藤一 青野 有吉 二上 大山
45 1987 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 45 1986 大山 米長 加藤一 谷川 森雞 桐山 有吉 二上 小林健
46 1988 中原誠 ○●●●○● 谷川浩司 46 1987 米長 谷川 桐山 大山 森雞 加藤一 有吉 内藤 青野
47 1989 谷川浩司 ○○○○ 米長邦雄 47 1988 中原 米長 加藤一 桐山 青野 内藤 大山 塚田泰 真部
48 1990 谷川浩司 ●○●○●● 中原誠 48 1989 米長 桐山 内藤 大山 中原 青野 塚田泰 田中寅 高橋
49 1991 中原誠 ○○○●○ 米長邦雄 49 1990 谷川 高橋 米長 内藤 大山 青野 塚田泰 有吉 真部
50 1992 中原誠 ●●○●○○○ 高橋道雄 50 1991 米長 谷川 塚田泰 内藤 高橋 大山 有吉 小林健 石田
51 1993 中原誠 ●●●● 米長邦雄 51 1992 高橋 谷川 大山 有吉 小林健 米長 塚田泰 田中寅 田丸 大山死去
52 1994 米長邦雄 ●●●○○● 羽生善治 52 1993 中原 高橋 谷川 小林健 田中寅 有吉 塚田泰 羽生 加藤一
53 1995 羽生善治 ○○●○○ 森下卓 53 1994 米長 谷川 中原 高橋 有吉 塚田泰 加藤一 森下
54 1996 羽生善治 ○○○●○ 森内俊之 54 1995 森下 中原 米長 谷川 高橋 加藤一 有吉 森内 村山聖
55 1997 羽生善治 ●○●●○● 谷川浩司 55 1996 森内 森下 米長 谷川 中原 加藤一 村山聖 佐藤康 森雞
56 1998 谷川浩司 ○●○●○●● 佐藤康光 56 1997 羽生 森内 森下 佐藤康 中原 加藤一 米長 高橋 井上慶
57 1999 佐藤康光 ○○●●●○○ 谷川浩司 57 1998 谷川 羽生 森内 森下 中原 井上慶 加藤一 丸山 村山聖 村山死去
58 2000 佐藤康光 ●●○○○●● 丸山忠久 58 1999 谷川 森内 丸山 羽生 森下 加藤一 中原 郷田 田中寅
59 2001 丸山忠久 ○●千●○●○○ 谷川浩司 59 2000 佐藤康 森内 羽生 森下 谷川 加藤一 田中寅 青野 先崎
60 2002 丸山忠久 ●●●● 森内俊之 60 2001 谷川 佐藤康 羽生 森内 青野 森下 先崎 加藤一 藤井 三浦
61 2003 森内俊之 ●●●● 羽生善治 61 2002 丸山 佐藤康 谷川 羽生 森下 藤井 青野 三浦 郷田
62 2004 羽生善治 ●●○●○● 森内俊之 62 2003 森内 佐藤康 藤井 谷川 丸山 青野 三浦 久保 鈴木大 森内全勝
63 2005 森内俊之 ●○○○●●○ 羽生善治 63 2004 羽生 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 藤井 久保 深浦 高橋
64 2006 森内俊之 ○○●○●○ 谷川浩司 64 2005 羽生 藤井 久保 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 森下 郷田
65 2007 森内俊之 ●●○○○●○ 郷田真隆 65 2006 谷川 羽生 佐藤康 郷田 丸山 藤井 久保 三浦 深浦 阿部隆
66 2008 森内俊之 ○●●●○● 羽生善治 66 2007 郷田 谷川 羽生 佐藤康 丸山 藤井 久保 三浦 木村一 行方
67 2009 羽生善治 ○●○●●○○ 郷田真隆 67 2008 森内 三浦 郷田 丸山 木村一 藤井 谷川 佐藤康 鈴木大 深浦
68 2010 羽生善治 ○○○○ 三浦弘行 68 2009 郷田 佐藤康 森内 丸山 木村一 藤井 谷川 三浦 高橋 井上慶
69 2011 羽生善治 ●●●○○○● 森内俊之 69 2010 三浦 高橋 森内 丸山 木村一 谷川 郷田 藤井 渡辺明 久保
70 2012 森内俊之 羽生善治 70 2011 羽生 渡辺明 高橋 郷田 三浦 丸山 谷川 久保 佐藤康 屋敷 羽生全勝
71 2013 71 2012 名人戦敗者 渡辺明 三浦 谷川 屋敷 郷田 佐藤康 高橋 橋本崇 深浦

記録

※A級順位戦の記録は、順位戦、および将棋棋士の在籍クラス を参照。

テレビ放送

名人戦七番勝負(竜王戦七番勝負も同様)の模様は、NHK BSプレミアム(2010年まではNHK BS2)で「将棋名人戦」という番組名で放送される。

各局の1日目は9:00-9:30(2010年までは9:00-10:00)と17:00-18:00に、2日目は9:00-9:30(2010年までは9:00-10:00)と16:00-18:00に生放送されることが多い。結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(21時台-23時台)に10分程度放送される。

司会をNHKの男性アナウンサーが、解説を棋士が、女流棋士が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いていたが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員[1])が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった[2]

2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。ドラムセット付きのオーケストラに模したコンピュータミュージックである。「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。

名人戦の主催者

当初の主催は東京日日新聞(現在の毎日新聞)だったが、第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から毎日新聞社の主催に復し、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。

順位戦#順位戦の歴史も参照。

1950年

この年、名人戦の契約が毎日新聞から朝日新聞に移っている。

名人戦を失った毎日は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています
参考資料
升田幸三『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、ISBN 412204247X

1976年

この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。

朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。

その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。

名人戦を失った朝日新聞は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。

参考資料
名人戦@将棋パイナップル
近代将棋」1976年12月号

2006年

2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。

問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判している。

2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。

通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。

7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。

8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。

12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人をだすこととなった。

参考資料
名人戦問題:MSN毎日インタラクティブ(現在はリンク切れ、Web Archiveによるミラー
日本の論点PLUS - 将棋名人戦の移籍問題
参考文献
『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」(田丸昇
将棋世界』2007年1月号、「名人戦の真実」
http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/a-class.html

脚注

  1. ^ 磯辺真季は、1995年1月 - 3月のNHK将棋講座で佐藤康光のアシスタントを務めている。
  2. ^ 2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、堀伸浩長野亮後藤理吉岡大輔泉浩司・長野亮(NHK囲碁と将棋 タイトル戦中継 2011年6月23日閲覧)。

関連項目

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