名古屋大空襲

第二次世界大戦末期、アメリカ軍が名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称

名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期、アメリカ軍名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうち特に市街地を標的として大規模に行われたものをいう。後者においては、中心市街地が罹災した1945年昭和20年)3月12日名古屋駅が炎上した3月19日、または名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。鉄道が被爆した。

空襲後の名古屋市街
1944〜45年 "Hesitation" Upwind「ためらいの向かい風」ロナルド・レーガンが語る名古屋爆撃任務、アメリカ陸軍航空軍第1映画部隊トレーニングフィルム (英語)

概要 編集

明確な定義はないため、名古屋に対するすべての空襲を総称して大空襲と呼ばれる場合も多く、また一宮市半田市に対するものなど名古屋近郊への空襲も便宜的に含める場合もある。1945年昭和20年)6月9日熱田区愛知時計電機船方工場・愛知航空機船方工場周辺に行われた空襲は熱田空襲と呼ばれる。

名古屋への初期の空襲 編集

 
米国の戦略爆撃調査の記録:対象地域別の軍事目標フォルダ:日本:名古屋地域(1944年7月6日)

1942年(昭和17年)4月18日アメリカ陸軍航空軍B-25爆撃機によるドーリットル空襲が行われ、名古屋にも同爆撃機2機による初の空襲があり、死者8人、負傷者31人の被害を被った。

1944年(昭和19年)7月、サイパン島などマリアナ諸島をアメリカ軍が制圧し、ここが以後の日本本土空襲の基地となった。

1944年(昭和19年)12月7日昭和東南海地震が東海地域の工場群に大きな損害を与えてから6日後[1][2]の同年12月13日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機90機により、日本航空用発動機生産高の4割以上を生産していた東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(三菱発動機第四工場、現在のナゴヤドーム(バンテリンドーム ナゴヤ)及び名古屋大学大幸医療センター付近)に対する初の本格的空襲が行われた。天候等の関係から爆弾は思うようにこの工場に命中せず、アメリカ軍は翌1945年(昭和20年)4月7日まで執拗に爆撃を繰り返し[3]、7回の爆撃で工場を壊滅させた。工場に命中しなかった爆弾は周辺の民家[注 1]に着弾し、多くの民間人が巻き添えになって死亡した[5]

また、1944年(昭和19年)12月13日には「東洋一の動物園」と謳われた千種区東山動物園においても、爆撃で破壊された飼育施設から逃げ出さないよう多数の猛獣類が殺処分された(戦時猛獣処分)。東山動物園では他の動物園で猛獣処分が始まってからも殺処分を拒んでいたが、警備に協力していた猟友会の強い要求を受けて殺処分に至った[6]

激化した1945年の空襲 編集

 
炎上する名古屋駅(1945年3月19日)。屋上には高射砲の陣地があったが、全く届かなかった。

空襲は、当初は日中の高高度戦略爆撃により軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていたが、命中率の低さから成果を上げられず、1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。

3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。

3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。

5月14日、B-29爆撃機440機による空襲で旧国宝名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上ったが、これ以降に撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪斬首死刑が執行されている[7]6月9日には熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。7月26日エノラ・ゲイによる八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下[8]を最後に63回の空襲が行われ、B29の来襲は2,579機に達した。投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及び[9]、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。

戦災復興事業 編集

第二次世界大戦後の1945年12月に市の有織者の復興調査会が「大中京再建の構想」を発表した。この方針は30項目からなり、「主要な幹線道路は50m以上」、「道路の付属物は地下に埋設」、「東西南北2本の地下鉄を設置」、「国鉄と私鉄は地下か高架に」、「国民(小)学校に隣接し、同規模の公園」などとし、「焼け跡の墓地は一定区へ移転整理」などが記されていた。それにより焼け野原と化した名古屋市の中心部での都市再建では、戦後の大規模な区画整理事業により、まず道路基盤と公園用地確保による整備された都市造りに力を入れた。道路造りや公園と住宅地を造る為に中区・東区・熱田区の中心部を中心に名古屋市内の約278ある各寺院の境内地に備わっていた18万9千基の墓地を全て平和公園に移転させ焼け残った多くの寺神社の境内が縮小された。更地同然となった名古屋市の中心部では空襲での火災被害の境遇から、火災の延焼を防ぐため、また市民の避難場所の為、また自動車社会の到来に合わせる為に、100m道路と呼ばれる広い道路の久屋大通若宮大通の他、道路整備などが造られた。公園緑地の整備と、鉄道沿線整備と駅前広場、居住環境の整備など、インフラ整備を中心に将来の名古屋市が200万人都市となるように都市再建をしていった。

名古屋市は都市としての個性と魅力が欠けると言われる事がある。しかしながら、都市景観の魅力に欠けるのは、数多くあった歴史的遺産と古い町並みの大半が空襲による戦災により焼失したことが大きく影響している。さらに戦後名古屋市が進めた戦災復興事業によって、市域の7割近くが区画整理、耕地整理で整備され、元の古い街並みを大きく変えて機能的で効率的な街造りを推進してきた事が大きいと指摘されている。

被害状況 編集

 
名古屋市の被害 - 第21爆撃集団ミッション174号と176号 1945年5月14日、17日
 
名古屋 防空関係資料・全国主要都市戦災概況図・昭和二十年十二月

名古屋市の全市域約1万6000haの約24%に当たる約3850haが焦土化したとされる。特に東区中区栄区熱田区の50%から60%が焼失されたとされ、都心部の公共建物や繁華街は壊滅的な打撃を受け、市の中心部は焦土と化した。

被災建物 編集

木造の建造物の大半は焼失した。慶長年間以来の碁盤割の町並みをはじめ、名古屋市の中心の建物の大半は破壊され、完全に焦土と化した。

公共施設
  • 内政部長官舎
  • 名古屋専売局
  • 各区役所
  • 各区支所精米所
  • 名古屋中税務署
  • 日本貯蓄銀行八熊支店
  • 食料営団水主町精米所
  • 名古屋市図書館
  • 食糧営団千種
  • 少年審判所
  • 名古屋貯金支局
  • 栄警察署
  • 北警察署
  • 田代消防署
  • 牧野消防署
  • 各変電所
  • 露橋下水処理場
  • 名古屋刑務所二棟
医療施設
鉄道施設
日本軍関係施設
商業施設
教育施設
企業・工場施設

被災文化財 編集

空襲により名古屋市内にあった数多くの文化財の歴史的建造物などの大半が失われ、被害を受けた。

 
炎上する名古屋城(1945年5月14日)
1930年(昭和5年)に天守をはじめとする建物群が城郭建築としては初めて旧国宝に指定され、1942年(昭和17年)には本丸御殿障壁画345面が旧国宝に指定されたが、天守や東北隅櫓、正門、金鯱、本丸御殿など多くを焼失。障壁画のうち、襖、障子、天井画など取り外し可能なものは空襲直前に取り外し、移動してあったため難を逃れたのもある。1959年(昭和34年)に天守は鉄筋コンクリート構造で外観復元され、本丸御殿は2009年平成21年)から復元工事が始まり2018年(平成30年)6月に完成した。外観復元された天守も焼失前の資料を元に木製天守に復元される予定である。
空襲により焼失するが、1949年(昭和24年)に再建。
  • 熱田神宮鎮皇門(国宝)、海上門(国宝)、春敲門
3つの門とも焼失。また熱田神宮は他にも勅使館、宮庁、神楽殿などが被害を受けた。
空襲により本堂を焼失。平成に入って再建された。
大須観音真宗大谷派名古屋別院を凌ぐ、名古屋最大及び大須界隈の最大を誇っていた寺勢だったが、芝居小屋や本堂(旧国宝)、三重塔など、七堂伽藍を全て焼失し、本尊の阿弥陀如来像や木造持国天・毘沙門天像(いずれも旧国宝)なども焼失。空襲から免れた経蔵と、燃損しながらも住職が何とか移動して助かった観音菩薩像・勢至菩薩像の本体と勢至菩薩像の光背のみが搬出され焼失をまぬがれた。境内の多くは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在はひっそりとした小さな寺に過ぎない。
空襲で焼失。1970年(昭和45年)に本堂が鉄筋コンクリート構造で再建された。
空襲で、ほとんどの建物を焼失。1972年(昭和47年)に本堂を再建。
  • 高岳院
国宝の本門を焼失。
豪華を極めた権現造の社殿、楼門、唐門、渡殿などが旧国宝に指定されていたが全て空襲で焼失。1954年(昭和29年)に建中寺にある御霊屋を移築して代わりに現在に至るまで名古屋東照宮の社殿として扱っている。
空襲で本殿、門を焼失。戦後再建された。
国宝の表門や伽藍を全て焼失。現在はコンクリート造りの建物を本堂としている。
国宝の楼門、本堂を焼失。
源頼朝の生誕地の寺。空襲により本堂、門を全て焼失。現在はコンクリート造りの建物を本堂としている。

名古屋市の見舞金制度 編集

戦後65年の2010年度(平成22年度)から、名古屋市が「民間戦災傷害者援護見舞金」として民間戦災傷害者の市民に年額26,000円の見舞金の支給を開始。支給額は2018年度(平成30年度)から年額37,000円、2021年度(令和3年度)から年額10万円に増額されている[10]

名古屋大空襲に関連する作品 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 上空の偏西風の影響で命中せずに外れたものも多い。命中せずに外れたものは当時の愛知郡猪高村(現在の名東区千種区の一部)などにも多数落下したという[4]
  2. ^ かつて名鉄常滑線に存在した駅。現在の地下鉄名城線の熱田神宮伝馬町駅とは異なる

出典 編集

  1. ^ 福和伸夫 (2021年12月13日). “77年前、東南海地震6日後に名古屋空襲と猛獣射殺。今、地震が起きたら社会はどうなる?”. Yahoo!ニュース. 2023年11月15日閲覧。
  2. ^ 山村武彦 (2023年11月3日). “じつは「太平洋戦争」のさなかにも起きていた「南海トラフ巨大地震」…ほとんど報じられなかったその「被害の全容」”. 現代ビジネス. 講談社. p. 4. 2023年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月15日閲覧。
  3. ^ 爆撃を受ける三菱重工業名古屋発動機製作所、名古屋大学医学部保険学科
  4. ^ 名東区にあった空襲」『ピースあいち メールマガジン』Vol.64、戦争と平和の資料館ピースあいち、2015年3月25日。 
  5. ^ シリーズ 戦争を考えるための遺跡⑥」『ピースあいち メールマガジン』Vol.22、戦争と平和の資料館ピースあいち、2011年9月25日。 
  6. ^ 動物園の歴史 > 7. 戦時下の動植物園”. 東山動植物園. 2023年11月15日閲覧。
  7. ^ 立川京一旧軍における捕虜の取扱い―太平洋戦争の状況を中心に」『防衛研究所紀要』第10巻第1号、防衛省防衛研究所、2007年9月28日、117頁、CRID 1521980704641629952 
  8. ^ シリーズ 戦争を考えるための遺跡⑩」『ピースあいち メールマガジン』Vol.28、戦争と平和の資料館ピースあいち、2012年3月25日。 
  9. ^ - 緑区いまむかし - 2001年9月号(26号)[リンク切れ]、月刊グリ
  10. ^ 「(拡充)民間戦災傷害者援護見舞金」『令和3年度主な施策等一覧(健康福祉局)』、名古屋市健康福祉局、35頁。 
  11. ^ 藤田貴美『ごめんよサン吉総務省、2009年12月https://www.soumu.go.jp/main_content/000333166.pdf 

参考資料 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集