向 宝(しょう ほう、1366年 - 1428年)は、明代官僚は克忠、は疏庵。本貫隆興府進賢県

生涯 編集

1385年洪武18年)、進士に及第した。兵部員外郎に任じられた。9年のあいだ過失がなく、通政使に抜擢された。応天府尹に転じた。建文年間、事件に連座して広西に流された。1403年永楽元年)1月、向宝は召し出されて復職した。1404年(永楽2年)12月、再び事件に連座して獄に下された[1]1410年(永楽8年)10月、両浙都転運塩司判官に降格した[2]皇太子朱高熾の知遇を得た。1424年(永楽22年)10月、向宝は左僉都御史となった[3]。まもなく右都御史・兼詹事となり、両職の俸禄を給与された。ほどなく詔に応じて八事を陳述し、その意見の多くは採用された。1426年宣徳元年)、南京に転出した。1428年(宣徳3年)閏4月、北京に入朝して謁見を受けた。宣徳帝は向宝の老衰を憐れみ、致仕を命じた。8月、向宝は帰郷する道中に死去した[4]。著書に『疏庵稿』があった[5]

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻13
  2. ^ 『国榷』巻15
  3. ^ 『国榷』巻18
  4. ^ 『国榷』巻20
  5. ^ 『江西通志』巻68

参考文献 編集

  • 明史』巻150 列伝第38