周 瑄(しゅう せん、1407年3月30日 - 1484年5月6日)は、明代官僚は廷玉。本貫太原府陽曲県

生涯 編集

周傑と張氏のあいだの子として生まれた。1425年洪熙元年)、太原府学に入り、生員となった。1435年宣徳10年)、郷挙により国学に入った。1437年正統2年)、行在吏部主事に任じられた[1]1444年(正統9年)、刑部江西清吏司主事に任じられ、刑事事件の審理をよくした。1448年(正統13年)、刑部員外郎に進んだ。1449年(正統14年)7月、オイラトエセン・ハーンが明の北辺を侵犯し、これに対して英宗が親征をおこなうことになった。扈従すべき郎中たちの多くは病と称して従軍しなかったが、周瑄は従軍を志願した。8月、土木の変で明軍が大敗すると、周瑄は負傷して北京に帰った。景泰帝が即位すると、周瑄は刑部河南清吏司郎中を代行した。ときに校尉が賄賂を受け取って盗みの罪を仇に押しつけた。周瑄は被告を弁護してその冤罪を雪ぎ、校尉を断罪した。

1450年景泰元年)10月、周瑄は吏部尚書の王直の推薦により、刑部右侍郎に抜擢された[2]1456年(景泰7年)、順天府河間府に出向して飢饉にあえぐ民衆に対して振恤をおこなった。1457年天順元年)、英宗が復位した。官吏が周瑄の召還を求めたが、英宗は聞き入れず、便宜の処置を取るように周瑄に命じた。周瑄は前後して飢民26万5000人に対して振恤をおこない、種牛を供与し、利民八事を上奏して施行した。1458年(天順2年)10月、刑部左侍郎に転じた[3]。ときに英宗は門達逯杲を任用して、たびたび粛清事件を起こしていた。周瑄は詳細な経緯を勧告して、多くを是正し、冤罪による刑罰が濫用されないようつとめた。1463年(天順7年)2月、工部の事務を代行するよう命じられた。11月、都察院の事務を代行するよう命じられた[4]。12月、錦衣衛の獄に下されたが、まもなく釈放された[5]

1465年成化元年)、周瑄は右都御史に転じ、南京の食糧備蓄を監督した。鳳陽府淮安府徐州で飢饉が起こり、周瑄の提言により穀物倉が開かれ、40万石が振給された。1469年(成化5年)3月、南京刑部尚書に転じた[6]

1477年(成化13年)、たびたび上疏して帰休を請願した。冬、致仕を許され、南京に隠居した。1484年(成化20年)5月6日、死去した。享年は78。太子少保の位を追贈された。は荘懿といった。

子女 編集

  • 周経(長男、字は伯常)
  • 周綸(次男、太学生となったが、早逝した)
  • 周紘(三男、1478年の進士。南京吏科給事中となり、二度にわたって災異について上奏し、成化帝に聞き入れられた。ほどなく御史の張昺と閲兵して、宦官の蔣琮に誣告を受け、南京光禄寺丞に左遷された。官は山東参議に終わった)
  • 周紞(四男)
  • 周縉(五男)
  • 周紳(六男)
  • 周綖(七男、早逝した)
  • 周維(八男)
  • 周氏(長女、馬忠にとついだ)

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻23
  2. ^ 『国榷』巻29
  3. ^ 『国榷』巻32
  4. ^ 明史』七卿年表一
  5. ^ 『明史』英宗後紀
  6. ^ 『国榷』巻35

参考文献 編集

  • 『明史』巻157 列伝第45
  • 資徳大夫正治上卿南京刑部尚書致仕贈太子少保諡荘懿周公行状(程敏政『篁墩文集』巻40所収)