周 蔭人(しゅう いんじん)は、中華民国の軍人。北京政府直隷派に属した。樾恩

周蔭人
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1956年
中華人民共和国天津市
出身地: 直隷省深州武強県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 周蔭人
簡体字 周荫人
拼音 Zhōu Yìnrén
ラテン字 Chou Yin-jen
和名表記: しゅう いんじん
発音転記: ジョウ インレン
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事跡 編集

陸軍速成学堂を卒業後、日本に留学する。1908年光緒34年)に陸軍士官学校第6期砲兵科で学んだ。この時、孫伝芳が同学であった。帰国後は、第4鎮教練官に任命される。また、広西省で軍務に就いた。

1913年民国2年)、北京政府陸軍部砲兵監に任命される。1918年(民国7年)、第4師の旅長に異動した。1919年(民国8年)、江西督軍陳光遠の参謀長に任命された。1922年(民国11年)6月、失脚した陳光遠の後任として第12師師長に昇進する。1923年(民国12年)3月、孫伝芳に随従して福建省に入る。1924年(民国13年)4月、福建軍務幇弁に任命された。

同年5月、浙江省へ向かった孫伝芳の後任として、周蔭人は福建督理に昇進した。1925年(民国14年)1月、福建軍務督弁に改めて任命される。同年11月、孫の下で五省聯軍閩軍総司令に任命された。1926年(民国15年)12月、中国国民党北伐軍に敗北して福建省から逃走する。1927年(民国16年)に安国軍第1方面軍訓練処長に任じられた。張作霖も敗北すると、周も下野し、以後は天津に寓居した。

1956年、死去。享年73。

参考文献 編集

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
孫伝芳
福建督理
1924年5月 - 1925年1月
次代
(督弁に改称)
先代
(督理から改称)
福建督弁
1925年1月 - 1926年12月
1925年11月より
五省聯軍閩軍総司令)
次代
(廃止)