喜連川尊信

日本の江戸時代前期の大名。下野喜連川藩世嗣喜連川義親長男で、喜連川藩2代藩主

喜連川 尊信(きつれがわ たかのぶ、1619年元和5年) - 1653年4月14日承応2年3月17日))は、下野喜連川藩の第2代藩主。

初代藩主・喜連川頼氏の長男・義親の長男。母は花房氏(榊原康政の養女)。正室は那須資景の娘。子に昭氏(長男)、氏信(次男)、娘(福原資敏正室)、娘(天野雄重室)、娘(東慶寺21世永山尼)。官位は左兵衛督

幼名は龍千代丸。のち元服して尊信と名乗る[1]

寛永4年(1627年)に父が祖父より先に死去したため、寛永7年(1630年)に祖父が亡くなると、幕命により家督を継ぐこととなった。しかし、正保4年(1647年)に藩の主導権をめぐって藩内で喜連川騒動が発生し、慶安元年(1648年)、幕命により家督を昭氏(7歳)に譲って隠居することを余儀なくされた。承応2年(1653年)3月17日、35歳で死去した。法号は瑞芳院殿昌山公大居士。

系譜 編集

父母

正室

側室

子女

脚注 編集

  1. ^ 「尊」の字は祖先にあたる室町幕府初代将軍足利尊氏にあやかったものであろう。