国分寺町 (栃木県)

日本の栃木県下都賀郡にあった町
国分寺小金井町から転送)

国分寺町(こくぶんじまち)は、栃木県下都賀郡に属していたである。

こくぶんじまち
国分寺町
下野国分寺
国分寺町旗
国分寺町旗
国分寺町章
国分寺町章
国分寺町旗 国分寺町章
廃止日 2006年1月10日
廃止理由 新設合併
国分寺町南河内町石橋町下野市
現在の自治体 下野市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 栃木県
下都賀郡
市町村コード 09363-7
面積 20.80 km2
総人口 17,784
推計人口、2006年1月1日)
隣接自治体 小山市栃木市壬生町・石橋町・南河内町
町の木 アカソネ
町の花 キク
町の鳥 ハト
国分寺町役場
所在地 329-0492
栃木県下都賀郡国分寺町小金井1127
座標 北緯36度23分14秒 東経139度50分31秒 / 北緯36.38717度 東経139.84194度 / 36.38717; 139.84194 (国分寺町)座標: 北緯36度23分14秒 東経139度50分31秒 / 北緯36.38717度 東経139.84194度 / 36.38717; 139.84194 (国分寺町)
国分寺町の県内位置図
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小山市への通勤率は18.2%、宇都宮市への通勤率は10.1%(いずれも平成17年国勢調査)。2006年1月10日、隣接する石橋町河内郡南河内町新設合併して下野市となり、廃止した。

町名は、同町内にある741年に建立された下野国分寺・同尼寺に由来する。

地理 編集

  • 河川:姿川

歴史 編集

沿革 編集

  • 1889年4月1日 - 小金井村、国分村、川中子村などが合併し国分寺村(こくぶんじむら)成立。
  • 1954年4月1日 - 国分寺村が町制施行、即日改称し、国分寺小金井町(こくぶんじこがねいまち)となる。
  • 1954年4月29日 - 国分寺小金井町が国分寺町に改称。
  • 1991年1月1日 - 小山市と境界変更。同日、下都賀郡石橋町とも境界変更。
  • 2006年1月10日 - 国分寺町が石橋町、河内郡南河内町と新設合併し、下野市が発足。

行政 編集

  • 国分寺村長
氏名 就任 退任 備考
1 大越久平 1889年(明治22年)10月 1897年(明治30年)10月
2 伊沢徳之進 1897年(明治30年)10月 1912年(明治45年)5月
3 木村喜一 1912年(明治45年)5月 1915年(大正4年)10月
4 白石伝三郎 1915年(大正4年)10月 1917年(大正6年)11月
5 大越竜一郎 1917年(大正6年)11月 1919年(大正10年)11月
6 白石伝三郎 1919年(大正10年)11月 1924年(大正13年)7月
7 田村宗三 1924年(大正13年)7月 1930年(昭和5年)3月
8 大越勝吉 1930年(昭和5年)3月 1936年(昭和11年)12月
9 浜口房吉 1936年(昭和11年)12月 1940年(昭和15年)12月
10 海老原弥一郎 1940年(昭和15年)12月 1946年(昭和21年)4月
11 稲葉敏 1946年(昭和21年)4月 1947年(昭和22年)4月
12 大山勝三郎 1947年(昭和22年)4月30日 1951年(昭和26年)4月29日
13 大越利雄 1951年(昭和26年)4月30日 1954年(昭和29年)3月31日
  • 国分寺町長(国分寺小金井町長)
氏名 就任 退任 備考
1 大越利雄 1954年(昭和29年)4月1日 1959年(昭和34年)4月29日
2 大越憲 1959年(昭和34年)4月30日 1963年(昭和38年)4月29日
3 高橋佳良 1963年(昭和38年)4月30日 1973年(昭和48年)6月3日 在任中死去[1]
4 若林英二 1973年(昭和48年)7月22日 2001年(平成13年)7月21日
5 大垣隆 2001年(平成13年)7月22日 2006年(平成18年)1月9日 初代下野市長

出典:『国分寺町史』, p. 719,859

子ほめ条例 編集

1985年(昭和60年)10月21日、国分寺町は「国分寺町児童生徒表彰に関する条例」を制定した[2]。これは町長の若林英二が選挙公約として掲げたもので、義務教育の9年間のうちに全児童・生徒を必ず1回表彰するというものであった[2]。校長は表彰対象となる児童・生徒を推薦し、その児童・生徒が被表彰者に選ばれると、町長から銅メダルを、教育長から賞状を贈られた[2]。子どもに授与される賞の名前は、奉仕賞・親切賞・努力賞・体育賞・学芸賞のいずれかであった[3]

こうした条例は日本全国に先駆けたものであり[2][4]、新聞が命名した「子ほめ条例」の通称で[2]広まった[2][4]2003年(平成15年)には、子ほめ条例に関係する自治体を集めた[4]「第1回全国子どもをほめよう研究大会」[2](全国子ほめフォーラム[4])が大分県前津江村(現・日田市)で開催された[2][4]

子ほめ条例は、少子化に悩む小規模な町村を中心に17市町村まで広がったが、市町村合併の影響で失効した市町村が多く、2007年(平成19年)時点で6市町だけになった[4]。国分寺町が合併し、下野市の一部となってからは、「下野市児童表彰条例」が制定され、下野市全域の児童が表彰対象となった[5]

地域 編集

教育 編集

交通 編集

鉄道路線 編集

道路 編集

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 編集

脚注 編集

  1. ^ “高橋国分寺町長が死去”. 下野新聞: p. 1. (1973年6月4日) 
  2. ^ a b c d e f g h 清水英男「地域ぐるみの青少年育成に関する一考察―児童・生徒に関する表彰条例「子ほめ条例」を中心として―」『生涯学習研究 聖徳大学生涯学習研究所紀要』第2号、聖徳大学生涯学習研究所、2004年3月、11-20頁、NAID 40006521734 
  3. ^ 町史編さん委員会 編『図説 国分寺町の歴史』国分寺町、2000年3月31日、235頁。 全国書誌番号:20082669
  4. ^ a b c d e f 川俣享子「ティーンズに開くNewsの窓 37 地方自治と条例」毎日新聞2007年2月12日付朝刊、東京版総合面19ページ
  5. ^ 下野市児童表彰条例”. 平成18年12月20日下野市条例第207号. 下野市 (2022年4月1日). 2022年6月28日閲覧。

参考文献 編集

  • 『国分寺町史』 国分寺町、2003年7月30日。

関連項目 編集

外部リンク 編集