5600形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍したテンダー式蒸気機関車である。

日本鉄道 Pbt2/4形(後の鉄道院 5600形)

1899年(明治32年)および1902年(明治35年)に、Pbt2/4形第2種(後の鉄道院5500形)の改良形としてイギリスベイヤー・ピーコック社(Beyer, Peacock & Co. Ltd., Gorton Foundry)で18両が製造され、日本鉄道に納入された機関車である。東武鉄道でも6両の同系機(B3形)が使用された。

構造 編集

車軸配置4-4-0(2B)で2気筒単式の飽和式テンダー機関車で、動輪直径は1,372mmである。設計変更により5500形とは大きく異なる形態となったが、基本的な性能、寸法は同一である。弁装置はスチーブンソン式、安全弁はラムズボトム式。

本形式の最も顕著な特徴は、ベルペヤ火室(Belpaire firebox)の採用である。ベルペヤ火室は、ベルギーの機関車技術者A・ベルペヤの開発した火室の形式で、内火室と外火室がほぼ同じ形状をしており、内火室を支えるステイの形状を簡単にでき、缶水(ボイラー水)の循環が良く水垢の付着が少ないという利点があり、角ばった外観が特徴である。しかし、円筒形のボイラー第2缶胴との接続部の工作が難しく、鉄道作業局では制式採用されなかった。

また、ボイラー中心高さが5インチ(178mm)高められたため、ランボード(歩み板)の高さも上がり、ランボード前端部の屈曲が始まるのもシリンダ(気筒)の直後となった。また、運転台の囲いの密閉性が上がり、側面にも引き違い式の窓が設置された。炭水車の台枠上面高さは変わっていないため、運転台後部のラインが炭水車の台枠上面高さに合わせて、S字型に屈曲している。運転室前面には、直接ランボード上に出ることができるよう、扉が設けられた。

5500形ではランボード上にあった砂箱も、ボイラー上に円筒形のものが設置され、近代的な外観になっているが、従来のピーテンにあった軽快さは失われている。

主要諸元 編集

 
形式図
  • 全長:14,382mm
  • 全高:3,810mm
  • 全幅:2,502mm
  • 軌間:1,067mm
  • 車軸配置:4-4-0(2B)
  • 動輪直径:1,372mm
  • 弁装置スチーブンソン式基本型
  • シリンダー(直径×行程):406mm×559mm
  • ボイラー圧力:10.5kg/cm2
  • 火格子面積:1.57m2
  • 全伝熱面積:89.7m2
    • 煙管蒸発伝熱面積:83.4m2
    • 火室蒸発伝熱面積:6.3m2
  • ボイラー水容量: 2.6m3
  • 小煙管(直径×長サ×数):45mm×3,642mm×164本
  • 機関車運転整備重量:35.58t
  • 機関車空車重量:32.32t
  • 機関車動輪上重量(運転整備時):23.92t
  • 機関車動輪軸重(各軸均等):11.64t
  • 炭水車重量(運転整備時):23.50t
  • 炭水車重量(空車):10.64t
  • 水タンク容量:9.1m3
  • 燃料積載量:3.46t
  • 機関車性能
    • シリンダ引張力:5,990kg
  • ブレーキ装置:手ブレーキ真空ブレーキ

経歴・運用 編集

冒頭で述べたように、本形式は1899年に6両(製造番号4038 - 4043)、1902年に12両(製造番号4479 - 4490)の計18両が輸入され、日本鉄道では形式は5500形と同じPbt2/4形、番号は213 - 230と付番された。

1906年(明治39年)に、日本鉄道が国有化されたのにともない官設鉄道籍となり、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では、5600形5600 - 5617)に改番された。その後、煙室を延長したほか、動輪のタイヤを強化したため、動輪径は1,397mmとなっている。

当時は東部鉄道局に所属し、仙台鉄道局が分離した後は両局に所属し、東北線系統で使用されたと思われる。1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)にかけて廃車となったが、7両(5608, 5616, 5613, 5615, 5612, ほか番号不明の2両)が王子製紙の傍系の樺太鉄道に譲渡されて40 - 46となり、5605は陸軍鉄道連隊に移った。

樺太鉄道では、1927年11月に開業した落合知取間で、混合列車の牽引に用いられたが、1937年(昭和12年)の時点で42, 45が廃車、40, 44, 46が知取、41, 43は敷香入換専用となっていた。その後、1941年(昭和16年)に樺太鉄道が樺太庁に買収され樺太庁鉄道樺太東線となり、1943年(昭和18年)4月に樺太庁鉄道が鉄道省に併合された際に、41, 43, 44が再び国有鉄道籍となり、5625形5625 - 5627)となったが、1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦時にソビエト連邦に接収され、その後の消息は不明である。

樺太鉄道(→樺太庁鉄道)40形→鉄道省5625形の新旧番号対照を以下に再掲する。

  • 鉄道省5608 → 樺太鉄道40 → 樺太庁鉄道40 → 廃車
  • 鉄道省5616 → 樺太鉄道41 → 樺太庁鉄道41 → 鉄道省5625 → ソ連接収(1946/03/31 除籍)
  • 鉄道省番号不明 → 樺太鉄道42 → 廃車
  • 鉄道省5613 → 樺太鉄道43 → 樺太庁鉄道43 → 鉄道省5626 → ソ連接収(1946/03/31 除籍)
  • 鉄道省5615 → 樺太鉄道44 → 樺太庁鉄道44 → 鉄道省5627 → ソ連接収(1946/03/31 除籍)
  • 鉄道省番号不明 → 樺太鉄道45 → 廃車
  • 鉄道省5612 → 樺太鉄道46 → 樺太庁鉄道46 → 廃車

鉄道連隊に移った5605は、1945年に事故廃車された3(初代。B1形)の代車として、終戦後に東武鉄道に入線(入籍は1952年)し、B7形3(2代))に改番された。同車は、1957年(昭和32年)まで使用され、廃車解体された。

東武鉄道B3形 編集

 
東武鉄道のB3形蒸気機関車の34号機(保存車)

東武鉄道のB3形は、国鉄5600形の準同形機といえるもので、動輪径が1524mmに拡大された以外の基本寸法は国鉄5600形と同一であるが、ランボード前端部の処理が変わって、屈曲を設けず直線のまま乙型に段差を設けた形となり、多少垢抜けた印象となった。1914年(大正3年)ベイヤー・ピーコック社で6両(製造番号5836 - 5841)が製造され、東武鉄道では29 - 34に付番された。日本で最後に輸入された2B型テンダー式蒸気機関車である。

本形式は貨物列車牽引に使用され、このうち、29, 33は、1960年(昭和35年)に、32は1963年(昭和38年)に廃車となったが、残りは1966年(昭和41年)6月末の会沢線、大叶線の蒸気機関車廃止まで使用された。その後、30は栃木県佐野市葛生町の嘉多山公園に、34は東京都大田区の萩中公園に静態保存されている。

台湾総督府鉄道部70形 編集

1908年(明治41年)より4両導入し、台北 - 高雄間の直通急行に使用した。

参考文献 編集

  • 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 1」1972年、交友社
  • 金田茂裕「日本蒸気機関車史 官設鉄道編」1972年、交友社刊
  • 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 III」1985年、機関車史研究会刊
  • 川上幸義「私の蒸気機関車史 上」1978年、交友社刊
  • 高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館
  • 沖田祐作「機関車表 フル・コンプリート版 DVDブック」2014年、ネコ・パブリッシングISBN 978-4-7770-5362-9

関連項目 編集