土岐政房

戦国時代の武将。美濃守護。土岐成頼の長男。美濃土岐氏当主。

土岐 政房(とき まさふさ)は、戦国時代武将美濃守護土岐成頼の長男。後に8代将軍足利義政から偏諱を受けて、頼継から政房に改名した。

 
土岐政房
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 長禄元年(1457年
死没 永正16年6月16日1519年7月12日
改名 美伊法師(幼名)→頼継→政房
戒名 承隆寺殿海雲宗寿大居士
墓所 岐阜県岐阜市茜部の成就寺跡
官位 美濃守
幕府 室町幕府美濃守護
主君 足利義政
氏族 土岐氏
父母 父:土岐成頼
母:斎藤利永の娘[1]
兄弟 政房大畑定頼佐良木尚頼[2]元頼萱津頼房、某(六角高頼の猶子)
不詳
頼武頼芸治頼梅戸光高(民部大輔光尚)揖斐光親鷲巣光敦(光蓮)、頼満頼香光建各務盛政
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生涯 編集

舞の名手で、応仁の乱を逃れて美濃の革手城に滞在していた一条兼良は日記で美伊法師(政房)の舞いを褒めている。

土岐氏の嫡男となっていたが、父の成頼は弟の元頼を溺愛して政房の廃嫡を図った。成頼の指示を受けて守護代斎藤利藤小守護代石丸利光らが元頼を擁立し、母方の叔父の斎藤妙純(利藤の異母弟)が政房を擁立したため、明応3年(1494年)に内乱が起きた(船田合戦)。明応4年(1495年)7月に政房は妙純と共に元頼方を破り、同年9月に成頼は隠居して政房が家督と守護職を継ぐ。元頼方は再挙を図るが、明応5年(1496年5月30日、妙純は城田寺城を囲み、元頼と利光は自害し、勝利した。

美濃では守護代の斎藤氏の力が土岐氏を凌ぐようになっており、船田合戦を通じてさらに強まったが、明応5年12月、妙純は近江へ出兵して六角氏と戦うが大敗を喫し、子の利親と共に戦死してしまう。その後は小守護代の長井長弘の力が強まった。

永正6年(1509年)、政房は岐阜市長良福光に福光城を築きここに移る[3]

政房は嫡男頼武を差し置いて次男頼芸を推し、長弘と斎藤彦四郎利親の弟)がこれを支持したが、頼武には守護代斎藤利良(利親の子)が味方して家督争いが起こり、永正14年(1517年)、ついには合戦となった。この時は頼武方が勝ったが、翌年には頼芸派が勝利し、頼武は越前に逃れた。政房は内乱の最中、永正16年(1519年)6月16日に死去[3]。政房の死後、同年に朝倉氏の助力を得て頼武が守護の座についたが、頼芸派はなおも家督奪取を狙ったため、以後も美濃の混乱は続いた。

墓所は岐阜市茜部成就寺跡。戒名は「承隆寺殿海雲宗寿大居士」。

脚注 編集

  1. ^ 『美濃国諸家系譜』
  2. ^ 列国譜
  3. ^ a b 横山住雄「土岐氏の守護館をめぐって」『岐阜史学』71号、1980年。