土橋貞恵

江戸時代後期の医師で慈善家

土橋 貞恵(つちはし ていけい、1776年安永5年) - 1865年6月2日慶応元年5月9日)は、現在の長崎県諫早市で活動した江戸時代後期の医師で慈善家。諫早では偉人として扱われ、敬意を表して「貞恵翁」と呼ばれる[1]

生涯 編集

安永5年、現在の諫早市長田町に土橋家の三男として生まれる[2][3]。幼名は多助[2]。愛称は、「多助坊(ぼっ)さん」[2][1]。安永9年までに両親を立て続きに亡くし、天明7年(1787年 - 1788年)に佐賀へ向かった[3]寛政元年(1789年 - 1790年)、医者の原謙斉に引き取られて原家に奉公し、医者になるため、古書店より購入した『四書』の素読を学び、医学書の聴講も時折受けた[3]

寛政4年5月(1792年6月または7月)から長崎吉松道碩の門下生となって医学を学び、文化2年(1805年 - 1806年)に医師免許と「永春」の名を与えられた[3]。文化3年(1806年 - 1807年)、肥前国高来郡森山村(現在の諫早市森山町)の杉谷に開業する[2][3]

貞恵は、貧しい患者らのために薬や米を施した[1]。医療活動以外にも道路改修工事や、複数の石橋の架設、溜池の開削など、私財をなげうっての慈善活動をおこなった[2]諫早家に300両を献金、好古館や寺にも寄付をした[3]万延元年(1854年)に当時の藩主から「貞恵」の称号を得る[3]慶応元年5月9日(1865年6月2日)死去(享年90)[1]

墓所は医業を営んだ杉谷にあり、生前に自身で設計施工したと伝わる[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 土橋貞恵翁祭 - 諫早スクールネット
  2. ^ a b c d e f 土橋貞恵墓地 - 諫早市
  3. ^ a b c d e f g 貞恵翁に関する年譜 - 諫早スクールネット