堀 勝名(ほり かつな、享保元年12月3日1717年1月15日)-寛政5年4月23日1793年6月1日))は、江戸時代中期の細川家家臣。通称の平太左衛門(へいたざえもん)でよく知られている。藩主細川重賢を補佐して熊本藩藩政改革宝暦改革)を推進した。

生涯 編集

細川家用人堀勝行の子として生まれる。18歳で家督を継承して用人の地位と家禄500石を引き継いだ。宝暦2年(1752年)に同じ家臣である竹原惟親(勘十郎・玄路)の推挙によって大奉行に抜擢されて藩政改革の中心に立つ。反対派を抑えて6人の奉行に藩政の権限を集中させ、『刑法草書』の制定や藩校時習館医学校再春館 (学校)の設立、隠田の摘発による課税強化やなどの専売制の強化、財政支出の削減などを行った。財政再建の功によって宝暦6年(1756年)には中老明和2年(1765年)には家老に任命されて家禄を3,500石に加増された。

明治44年(1911年)、従四位を追贈された[1]

人物 編集

「キンキラキンのガネマサどん」と藩内では呼ばれた。「錦綺羅(きんきら)の贅沢品などを禁(きん)止した緊(きん)縮主義のガネマサ(カニのこと。前へ進めない)」を揶揄したもの[2]

脚注 編集

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.29
  2. ^ 公益財団法人くまもと「宝暦の改革」(2020.10.19)