堂本 正樹(どうもと まさき、1933年11月1日 - 2019年9月23日)は、日本劇作家演出家演劇評論家。演出家として三島由紀夫作品を多数手がける。また、新作能の作者として、数多くの作品を手がけている。

経歴 編集

本名、堂本正男。神奈川県横浜市鶴見区生まれ。慶應義塾幼稚舎在学中、一家の別荘がある鎌倉市に縁故疎開し、戦後も同市に住み続ける。1949年6月頃、旧制慶應義塾普通部4年生の時に銀座ゲイバー「ブランズウィック」で新人作家時代の三島由紀夫と知り合い、弟分として親交を結ぶ[1]慶應義塾大学文学部国文科中退。

1959年寺山修司たちと共に演劇集団"鳥"を結成。同年、三島が榊山保名義で書いたマゾヒスティック少年愛小説愛の処刑』の清書を手伝う。

1963年4月、 《堂本正樹演出リサイタル》を草月会館ホールで開催。上演された〈降霊館死学〉には、土方巽、葵妖子、ジャン・ヌーボらが出演。作句は加藤郁乎、美術は池田満寿夫だった[2]

1963年『喜びの琴』上演中止により三島由紀夫矢代静一賀原夏子中村伸郎らは文学座を退座し、1964年NLTを結成する。1966年、堂本は、映画版『憂国』の演出を担当。同年、NLTに参加。しかし、やがて内部で路線対立(海外の喜劇作品を中心とした演目を志向する賀原らと、三島作品の上演を望む中村ら)により、NLTは分裂する。NLTでは顧問として裏方に徹していた三島は、表に立って「三島由紀夫を中心とする劇団」の結成に踏み切ることとなり、1968年4月、NLTから脱退して劇団浪曼劇場を設立。堂本も、三島に従ってNLTを脱退し、浪曼劇場に移り、演出を担当する。浪曼劇場参加者は、三島由紀夫(劇作家)、松浦竹夫(演出)、堂本正樹(演出)、中村伸郎南美江村松英子[3]村上冬樹川合伸旺勝部演之中山仁内田勝正ほか。

旗揚げ公演は翌1969年1月、三島の書き下ろしによる『わが友ヒットラー』。その後も、『朱雀家の滅亡』、『サド侯爵夫人』、『薔薇と海賊』など、三島作品を中心に上演を続ける。1970年11月25日、三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で衝撃的な自決(三島事件)を行ったことで、劇団は大きく揺れた。

三島の自害以前から既に決定していた、1971年3月公演の『サロメ』は、急遽三島由紀夫追悼公演となった。公演が行われた紀伊國屋ホールには多くの観客が詰め掛け大盛況となったが、1972年劇団浪曼劇場は解散。実質的な劇団としての活動期間は、わずか3年足らずだった。

浪漫劇場解散以後の堂本正樹は、もっぱら演劇評論家、能を中心とした演劇研究家として活動し、別項のように多数の著作を残した。

2019年9月23日、肺炎のため死去[4]。85歳没。

著書 編集

脚注 編集

  1. ^ 『回想 回転扉の三島由紀夫』,[1]
  2. ^ [2]
  3. ^ 回想記『三島由紀夫追想のうた』(阪急コミュニケーションズ
  4. ^ “演劇評論家、堂本正樹氏死去 85歳”. サンケイスポーツ. (2019年10月1日). https://web.archive.org/web/20191001105527/https://www.sanspo.com/geino/news/20191001/sot19100115140016-n1.html 2019年10月1日閲覧。 

参考文献 編集