夏 時(か じ、生年不詳 - 1468年)は、明代官僚は以正。本貫杭州府銭塘県

生涯 編集

1418年永楽16年)、進士に及第し、戸科給事中に任じられた。

1425年洪熙元年)、鈔法の改定が議論されると、夏時は宝鈔が市場を騒がし、国の利益にはならないと力説したが、議論は沙汰止みとなった。皇太子朱瞻基孝陵を祀るために南京に赴くと、夏時はこれに近侍するよう命じられた。道中に災害の被災地を視察して太子に報告し、官倉を開いて穀物を振恤した。太子が北京に召還された後も、夏時は残って南京戸科給事中をつとめた。

宣徳初年、夏時は一日三回封事を上書した。宣徳帝(朱瞻基)の意にかなって、尚宝司を代行するよう命じられ、吏・礼・兵・刑の四科の給事中を兼ね、七篆を視察し、事務を滞らせることがなかった。南京後湖賦役黄冊を調査するよう命じられ、便宜十四事を言上した。邳州徐州済寧臨清武清で旱魃が発生すると、夏時の要請により、官が派遣されて振恤がおこなわれた。ほどなく江西按察僉事に抜擢された。知州の柯暹が編纂した『教民条約』と『均徭冊式』を進上し、刊行して令とした。

1438年正統3年)、夏時は御史や按察司の官に罪囚を調査させて、冤罪の者を釈放させ、法を曲げる官吏を逮捕させるよう上奏した。江西布政使左参議に転じた。1442年(正統7年)、恤民六事を上奏し、意見の多くは聞き入れられて施行された。1450年景泰元年)8月、広西左布政使に抜擢された[1]。のちに70歳になる前に致仕して帰郷した。1468年成化4年)9月辛巳、死去した[2]。著書に『湖山百詠』1巻[3]があった。

夏時の性格は廉潔で義を好んだ。没後にその墓に異徴があったため、郷土の人はかれを祀って、その祠を「孝廉」と名づけた。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻29
  2. ^ 『国榷』巻35
  3. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻8

参考文献 編集

  • 明史』巻161 列伝第49