夏村洋一
夏村 洋一(なつむら よういち、1955年1月21日 - )は、福岡県出身の元騎手・調教助手。
夏村洋一 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1955年1月21日(69歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 栗東・夏村辰男(1973 - 1986) |
初免許年 | 1973年3月4日 |
免許区分 | 平地・障害 |
騎手引退日 |
1986年 1985年12月21日(最終騎乗) |
重賞勝利 | 2勝 |
通算勝利 | 88勝 |
来歴 編集
1973年3月4日に栗東の父・辰男厩舎からデビューし、阪神第6競走障害5歳以上300万下・ジャングルオー(6頭中3着)で初騎乗を果たす。同馬に騎乗した4月7日の阪神第5競走障害5歳以上300万下で初勝利を挙げ、9月22日の阪神第5競走障害4歳以上オープンではグランドマーチスに7馬身差を付けて快勝している。1年目の同年は5勝、2年目の1974年は6勝と全て障害でマークし、3年目の1975年3月9日に阪神第1競走4歳未勝利・ポットハヤテで平地初勝利を挙げる[要出典]。
1976年には初の2桁となる11勝をマークし、障害5勝に対して平地は6勝と1勝上回る。1977年には自己最多で自身最後の2桁となる17勝をマークし、平地だけで14勝を挙げた。同年はアラブ大賞典・ポットグリンで重賞初制覇を挙げ、12月10日の中京では初の1日2勝を記録。1978年は初の障害0勝に終わるなど6勝に終わるが、ポットグリンでアラブ大賞典を連覇。その後も9勝→5勝→6勝→5勝→6勝と1桁台が続き、1984年には初の0勝に終わる。1985年3月9日の阪神第4競走4歳未勝利・ブルーリキオーで2年ぶりの勝利を挙げるが、8月17日の小倉第5競走4歳未勝利・グランドメヌエットが最後の勝利となった。同年12月21日の阪神第4競走4歳以上400万下・ミヤジユーゴー(13頭中6着)が最後の騎乗となり、1986年限りで現役を引退[要出典]。
引退後は加藤敬二厩舎の調教助手となり、ノースフライトを手がけるなど、番頭格[1]の攻め専助手として辣腕を振るう[2]。「かかってこんかい」[1]が決め台詞の強気なコメントが競馬ファンの間でよく知られ、全盛期には夏村の「強気節」を収集したウェブサイトが存在していたほどであった[2]。
ノースフライトは夏村がこれまでで一番強気になれた馬であり、サクラバクシンオーと熱戦を繰り広げたラストランの1994年マイルCSでは、バクシンオーを管理し、こちらも強気節で有名であった境勝太郎調教師の「境ラッパ」に対抗して喧嘩を売った[2] [1]。夏村は取材に来た記者に「マイルなら負けへん。かかってこんかい」と伝えるよう頼み、結果はノースフライトがサクラバクシンオーを0秒2差下して勝利した[2]。
ノースフライトは素直で賢い馬であったが、坂路に行く前に突然止まるようになったこともあり、加藤が“怒るな”と言ったことから、馬が自分で動くまで30分ほど待ったりしたこともあった[2]。その姿が新聞に大きく載ったこともあり、夏村は後に「今までで一番思い出に残っている馬」と振り返っている[2]。
騎手成績 編集
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 71 | 60 | 68 | 560 | 759 | .094 | .173 |
障害 | 17 | 24 | 24 | 143 | 208 | .082 | .183 |
計 | 88 | 84 | 92 | 703 | 967 | .091 | .178 |
主な騎乗馬 編集
- ポットグリン(1977年・1978年アラブ大賞典)