大人漫画(おとなまんが)とは、大人向けの漫画。「ナンセンス漫画」「成人漫画」ともいう。

1930年代から1960年代にかけては日本の漫画の本流であり、単に「漫画」というと「大人漫画」のことを指した。ただし、戦前の『のらくろ』『少年倶楽部』を経て戦後の手塚治虫に至る「子供漫画」の系譜が1970年代以後の漫画の本流になったため、漫画史上において「大人漫画」の流れは存在しなかったことにしている漫画史家も多い(いわゆる「手塚史観」)。

概要 編集

風刺とユーモアを旨とする漫画である。明治時代の漫画(「ポンチ絵」)と違う点として、「ポンチ絵」が低俗すぎて話にならないのに対し、「大人漫画」は大人の鑑賞に堪える。

大正時代の漫画と違う点として、日本画の筆ではなくペンとインクを使って描く。つまり、普段は筆を使っている美術家が余技として漫画を描くのではなく、本職の「漫画家」が描く漫画である。「漫画家」として大新聞社に雇われ、高給を貰って漫画を描いていることから、大人漫画家はプライドが高かった。

セリフは写植ではなく、全部手書きである。書き文字も含めて「描線」を味わう楽しみを知っているのが読者である「大人」だった。

「子ども漫画」との違いとして、子ども漫画は子供が読むものだったのに対し、大人漫画は大人が読むものだった。つまり、(繰り返しになるが)「大人漫画」は大人の鑑賞に堪える。逆に言うと、大人漫画は知的過ぎて子供は読むことができなかった。また、おっぱいやセックスなどエロいネタも多かったので、子供が大っぴらに読んで良いものではなかった。

子ども漫画は子供の代替わりに従って価値観が変わり、数年で漫画家の入れ替えが起きるので、子ども漫画から大人漫画に移行する例も多かった。(馬場のぼるなど)

劇画」と比較すると、「劇画」が教育を受けていない人が描いていたのに対して、「大人漫画」は大卒が書いていた[1]。1968年当時の代表的な大人漫画誌である『漫画サンデー』初代編集長の峯島正行によると、「大人漫画」は描くのに高度な知性が要求され、教養がなければ描けない物であった。それゆえ、新人が育ちにくく、「漫画ブーム」と呼ばれた1960年代の全盛期でも「おとな漫画」の漫画家は3、40人しか存在しなかった。また、「劇画」は社会の底辺の人たちが読む漫画だったのに対し、「おとな漫画」は知的な大人が読む漫画であった[2](注:この峯島の見解は事実ではなく、「大人漫画家」の差別意識を表している)。

1ページの作品が主流であるが、1960年代には4pから8p程度の「長編」も登場した。「大人漫画」末期における佐川美代太郎の試みを見る限り、さらに長い作品を書くことも不可能ではなかったと考えられているが、そのような可能性が開拓される前に「大人漫画」が衰退し、「大人漫画誌」の廃刊により発表の場が失われてしまった。

内容は、風刺漫画などもあるが、ほとんどがナンセンス漫画である[3]。作者の主義主張がある「風刺漫画」や「政治漫画」に対して、そのようなものがない「ナンセンス漫画」は従来は低く見られていたが、1960年代には秋竜山をはじめとする若手のナンセンス漫画の逸材が多く登場し、大人漫画の本流となった。

「子供漫画」や「劇画」は人物のアップなどを多用するが、「大人漫画」の作者はまさしく「大人」であり人物を客観的に見ることができるので、人物を遠くから描写するのが基本である。

漫画読本』『週刊漫画TIMES』『漫画サンデー』などが、1960年代の代表的な大人漫画誌である。特に『漫画読本』は「月刊誌」という立場上、速報性が問われる時事風刺漫画ではなくナンセンス漫画が主体となったことから、「大人漫画」の代表とされる。1960年代が全盛期であるが、「劇画」に押され、1970年を境に衰退した。

「村」意識と衰退 編集

漫画評論家の石子順造によると、1967年当時、大人漫画の世界は近藤日出造を頂点とする業界団体の「漫画集団」が牛耳っていた[4]。漫画集団は「大人漫画」の掲載先であるマスコミと結託し、「大人漫画」業界を独占していた。「大人漫画家」になるには漫画集団に加盟する必要があったが、そのためには横山隆一加藤芳郎などの幹部に気に入られる必要があった。大人漫画家として成功するかどうかは、実力ではなく、集団内の「序列」で決まった。1960年代に「子供漫画家」の分際で漫画集団に加盟した手塚治虫は、当時の漫画集団の人間関係に関して直接的には論じていないものの、近藤日出造の師であった岡本一平の「一平塾」に関して、弟子として「先生の七光」でデビューするという「親密」な側面を指摘している[5]

「漫画集団」は戦前の「新漫画派集団」の流れを汲んでいるが、戦前からの「大人漫画家」は戦時中の戦争責任を無かったことにしていた点も、戦後の世代から批判を浴びた。近藤日出造は戦時中は大日本帝国政府に協力して翼賛体制のプロパガンダ漫画を描いておきながら、戦後も日本政府に協力して日米安保などのプロパガンダ漫画を描いていた点を石子順造は批判した。連合国首脳部を風刺する漫画を描いていた近藤が、終戦後すぐ、東条英機を風刺してマッカーサーを称える漫画を描くという、この「転向」に関しては、終戦当時少年としてこの漫画を読んだ小林信彦も怒りを表明しており[6]、当時の『漫画』読者にとっては衝撃的だったらしい。

また、「漫画集団」の人間はエリート意識が強く、「子供漫画」「劇画」「大阪人」などを軽蔑していた。手塚治虫の「子供漫画」が人気を博していた1956年当時、近藤は「悪書追放運動」の先頭に立ち、手塚治虫に代表される俗悪な子供漫画を批判した。また当時、大人漫画への意欲を見せていた手塚に対し、近藤は『ぼくのそんごくう』を例に挙げ、手塚が「『絵の点』での力量不足」の為に大人漫画を描けない状況を指摘し、子供漫画家が箸にも棒にもかからない粗末な絵描きである点を批判した[7]。(ただし、手塚は『手塚治虫 漫画の流儀』において、「大人漫画」の立場から俗悪な子供漫画を糾弾した「漫画集団」の漫画も、当時は悪書とされた点を指摘している。手塚は「漫画集団」の面子を恨んでいたが、一方で手塚自身は「漫画集団」の漫画で育った世代であり、「漫画集団」に頼んで入れてもらうなど、憧れている部分もあった)

さらに「漫画集団」は、1960年代に勃興して「大人漫画」を衰退に追い込むことになる「劇画」に対しても激しい罵倒を行った。「漫画集団」は、1964年に日本の漫画家の職能集団である「日本漫画家協会」が創設された際も主導権を握った。1972年当時、劇画界の代表としてさいとう・たかを佐藤まさあきが日本漫画家協会の理事として参画したが、さいとうが日本漫画家協会に「劇画賞」の創設を提案したところ、理事長の近藤日出造以下、当時の日本漫画家協会の主導権を握る「大人漫画」系の漫画家の逆鱗に触れた。『週刊子供マンガ新聞』の時代から親しんできたベテラン漫画家たちから悪罵された佐藤は日本漫画家協会を脱退した[8]

「大人漫画」時代の末期には、1960年代当時を代表する子ども漫画家であった手塚治虫、赤塚不二夫藤子不二雄を「漫画集団」に加盟させるなど、新たな世代の人を入れる動きがあったが、彼ら「子供漫画家」は本職の「大人漫画家」になるつもりなどなかった。劇画の隆盛に伴い、彼らも劇画を描くに至り、「大人漫画誌」は消滅し、それに伴いおとな漫画は衰退してしまった。1970年代には谷岡ヤスジなど、「村」の外から現れた若い大人漫画家が活躍するなどの動きもあったが、「大人漫画誌」が消滅していたため、一般漫画誌の添え物としての限定的な活躍にならざるを得なかった。

歴史 編集

明治以来、漫画は「ポンチ絵」と呼ばれて蔑まれていたが、大正時代になると大人の鑑賞にも耐えうる漫画が登場。1915年(大正4年)には東京漫画会が結成され、このような高尚な漫画を「漫画」と呼ぶ運動が行われた。その結果、昭和時代に入るころには「漫画」の語が定着した。

1932年(昭和7年)、横山隆一近藤日出造杉浦幸雄らにより新漫画派集団が発足。峯島正行は、この時をもって近代漫画(大人漫画)の始まりと考えている。

戦後の代表的な子供漫画家であった手塚治虫によると、大人漫画と子供漫画の区別がついたのは、「漫画」という語が誕生した大正五、六年から昭和初期にかけてのことだという。「大人漫画」が「漫画」と呼んでも良い所までクオリティが高いのに対し、「子供漫画」は「ポンチ絵」の延長線上にあるとみなされていた。昭和初年の当時の代表的な漫画家(大人漫画家)であった岡本一平は、大人漫画のことを「漫画」と呼んだのに対し、子ども漫画のことは「ポンチ絵」と呼んだ。(これは、子供漫画に対する差別意識の表れであると手塚は論じている[9]。)

1946年、伊藤逸平が漫画雑誌『VAN』を創刊。『VAN』からは横山泰三らがデビューした。また同年、戦時中のプロパガンダ漫画雑誌であった『漫画』が近藤日出造主宰の漫画雑誌として刷新される。『漫画』からは、荻原賢次六浦光雄加藤芳郎らがデビューした。

1954年、文藝春秋社より初の「大人漫画」誌として『文春漫画読本』が創刊される。当初は『文藝春秋』の別冊として発売されたところ、評判がよく、初版の17万部が数日で売り切れたことから、月刊紙として独立創刊された。1955年には文藝春秋漫画賞が創設される。

1955年、読売新聞社でも『漫画読本』に対抗して『漫画読売』を発刊した。

1956年、芳文社より日本初の週刊漫画誌として『週刊漫画タイムズ』が創刊される。『漫画読本』と比べるとかなり大衆的な漫画誌だった。1959年には『漫画サンデー』が創刊。峯島正行編集長の意向により、漫画集団(特に横山隆一、近藤日出造、杉浦幸雄という「集団御三家」)を中心とした紙面となった。

1967年、近藤日出造の『漫画』が復刊された。古臭すぎて誰も読まず、近藤は大きな借金を抱えた。

1967年、漫画評論家の石子順造が『週刊大衆』(1967年12月28日号)で評論を発表。石子によると、1968年当時の漫画界は近藤日出造をトップとする「漫画集団」に牛耳られ、停滞していた。石子はこの評論において、手塚治虫のアニメプロダクション「虫プロ」の放漫経営についても批判したことから、手塚が激怒。漫画集団の一員として、またアニメーターとしても横山隆一に私淑する手塚は、『COM』誌(昭和四三年二号)において、石子のことを罵倒すると同時に、漫画集団を擁護した。しかし結局、「大人漫画」は衰退し、虫プロも1973年に倒産した。

『週漫』など「大人漫画」各誌が劇画誌に舵を切る中、『マンサン』編集長の峯島正行は劇画を嫌っており、劇画誌へは移行しなかった。「ナンセンスに賭ける」という峯島の方針により、『マンサン』の執筆陣は漫画集団系の漫画家が独占しており、漫画集団に新たに加盟した手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄をレギュラーに加えた。1968年よりマンサンで連載された手塚の『人間ども集まれ!』が「大人漫画」初の長編漫画である。「長編」と言っても毎回せいぜい10ページ程度だった(単行本は大幅に加筆されている)。1969年より藤子不二雄の『黒ィせぇるすまん』を連載。赤塚不二夫『天才バカボンのおやじ』は、セリフが手書きであるなど、彼らは「大人漫画」の習得のため「漫画集団」の画風に意図して寄せていた。

「大人漫画」における長編漫画の可能性を示し、『マンサン』を盤石の布陣とした峯島は、実業之日本社において小説部門への異動を受け、1970年に『マンサン』編集長の職を辞した。ところが旧態依然として「大人漫画」を載せ続ける『マンサン』は売り上げが悪化しており、次の編集長は劇画路線に舵を切る。1971年より藤子不二雄が『劇画毛沢東伝』を連載。大きな評判を呼び、その後も「革命家シリーズ」として水木しげるの『劇画ヒットラー』など類似の劇画が連載される。新任の編集長は他誌からの遅れを取り返すために試行錯誤し、『マンサン』に次第に劇画が増えていった。その末に、1975年、『マンサン』の編集長は小島功以外の大人漫画を全員切り、本格的な劇画誌となった。

1970年、文藝春秋社の『漫画読本』が休刊。大人漫画の時代は終わった。

参照 編集

  1. ^ 『コミカライズ魂』、すがやみつる、河出書房新社、2022年
  2. ^ 「新評」1968年4月号、p.110
  3. ^ 『復活!大人まんが』夏目房之介、呉智英、2002年、実業之日本社、p.2
  4. ^ 『マンガ芸術論』,富士書院,石子順造,1967年,p.122
  5. ^ 『手塚治虫 漫画の流儀』、手塚治虫、石子順
  6. ^ 小林信彦『一少年の観た「聖戦」』、p.196
  7. ^ 『中央公論』1956年7月号、pp.310-316、近藤日出造「子供漫画を斬る」
  8. ^ 佐藤まさあき『劇画の星をめざして』文藝春秋社、p.283、1996年、佐藤まさあき
  9. ^ 『手塚治虫 漫画の流儀』、手塚治虫、石子順

関連項目 編集

  • 夏目房之介 - 大人漫画の研究者。一方で戦後世代の漫画研究者として、手塚治虫を(戦後)漫画の始祖とする「手塚史観」を広めた人物でもある。
  • お笑い漫画道場 - 大人漫画の作家が起用された日テレ系のバラエティ番組。
  • エロ劇画 - 1970年代以後、「大人漫画」に代わって「大人向け漫画」の代名詞となった。