大儀見 元一郎(おおぎみ もといちろう、弘化2年1月15日1845年2月21日) - 昭和16年(1941年12月27日)は、明治時代の教育者、牧師である。

おおぎみ もといちろう

大儀見 元一郎
生誕 (1845-02-21) 1845年2月21日
日本の旗 日本江戸
死没 (1941-12-27) 1941年12月27日(96歳没)
日本の旗 日本東京府
国籍 日本の旗 日本
出身校 ホープ・カレッジニューブランズウィック神学校
職業 武士牧師教育者
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生涯 編集

1845年江戸で旗本の家に生まれる。本姓は丸茂。戊辰戦争で戦った過去を持つ。その後静岡に移住する。

1870年明治3年)に勝海舟の勧めで渡米する。米国留学中に洗礼を受ける。ニューヨークホープ・カレッジ初代学長フェリップスに出会い、1871年木村熊二と共にミシガン州ホランドのホープ・カレッジに入学し、1879年に卒業する。[1]その後、ニューブランズウィック神学校で神学を学び、1882年(明治15年)帰国する。

日本基督教会牧師時代 編集

帰国後、日本基督教会の牧師になり、麹町教会の牧師になる。1883年に第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部の一人として関わる。

1891年スティール・アカデミーの3代目院長に就任する。在任中1892年ごろから、スティール・アカデミーは東山学院と呼ばれるようになる。1896年に東山学院を辞任する[2]

メソジスト牧師時代 編集

後に、アメリカ・メソジスト・プロテスタント教会に移籍する。名古屋英和学院で教え、東京美普教会で牧師をする。麻布、浅草、小石川教会を設立する。

逸話 編集

  • ニューブランズウィック神学校卒業時は、卒業生代表として英語、日本語、ラテン語でスピーチをする。

親族 編集

子に在ヴェネズエラ公使館三等書記官臨時代理公使などを務めた大儀見准。東京外国語学校 (旧制)在学中に召集され、1918年8月のシベリア出兵を経験し、第二次大戦直後には、『リーダーズ・ダイジェスト』誌の日本責任者となり、神奈川県知事内山岩太郎の補佐をつとめた[3]。准の妻のメイベル・ジョーンズはアイルランド人で、芥川龍之介の友人で大蔵商業(現・東京経済大学)英語教師、ロイター通信社記者などをしていたトーマス・ジョーンズの妹[4]。兄を追って1919年に来日し、渋沢栄一が設立した国際通信社の総支配人だったアイルランド人ジョン・ラッセル・ケネデーの秘書として働くなかで准と知り合い、准がメキシコ公使館書記生時代にワシントンの日本大使館で結婚した。その長男の大儀見薫(1929-2009、サンセバスチャン生まれ)は武蔵高等学校 (旧制)から米国リード大学に進み、帰国後、20世紀フォックス極東宣伝部長、リーダーズ・ダイジェスト社の代表取締役を経て、1982年より西武百貨店取締役を務めた[5][6][7][8]。その一人息子である大儀見元(1963-、神奈川県二宮町生まれ)は、日本を代表するパーカッショニスト、歌手。

参考文献 編集

  1. ^ 「オルトマンス」『長老・改革教会来日宣教師事典』p.255
  2. ^ 「スタウト」『長老・改革派来日宣教師辞典』215ページ
  3. ^ 『東京外国語学校史: 外国語を学んだ人たち』野中正孝、不二出版, 2008, p1187
  4. ^ 彼 第二 芥川龍之介やぶちゃんの電子テキスト
  5. ^ 大儀見薫さんを偲ぶ横浜プロテスタント史研究会報、46号、2010年4月10日
  6. ^ 通信販売業界の軌跡-業界パイオニア一三人の証言と解説・年表自費出版図書館
  7. ^ 『波切大王の冒険―太平洋縦断1万200キロ』著者紹介
  8. ^ 帆船は人間をスケールアップする場になりますヤマハマリンニュース83号、ヤマハ発動機、1992年4月1日

参考文献 編集

  • 笠井秋生、佐野安仁、茂義樹『沢山保羅』日本基督教団出版局、1977年
  • 太田愛人, 岡見璋, 秋山繁雄『大儀見元一郎とその時代―侍から牧師へ・一幕臣の軌跡』新教出版社、1994/2/15
  • 中島耕二、辻直人、大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』、2003年
  • 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年

外部リンク 編集