大内 有恒(おおうち ありつね、1890年明治23年[1]〉 - 1954年昭和29年[1]〉)は、昭和時代前期の政治家弁護士山形県山形市長。

経歴 編集

山形中学校旧制第二高等学校東京帝国大学を経て、山形市内に弁護士を開業する[2]。1925年(大正14年)山形市会議員に当選以来市会の実権を握り、のちに蔭の市長と呼ばれた[2]

太平洋戦争末期と終戦後の混乱期の2年間市政を担当し、分散疎開や外地引揚者の受入に苦心した[2]。その後、公職追放となった[2]

親族 編集

脚注 編集

参考文献 編集

  • 歴代知事編纂会 編集『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。 
  • 人事興信所 編『人事興信録 第36版 上』人事興信所、1991年。 
  • 日外アソシエーツ 編集『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。ISBN 4816929304