大藤政信

戦国時代の武将。北条氏政の家臣。相模国中郡郡代。田原城主。

大藤 政信(だいとう まさのぶ、生年不詳 - 天正14年5月23日1586年7月9日)?)は、戦国時代武将北条氏政の家臣で、相模国中郡郡代、田原城[1]秀信(政信(初代))の子[1]。通称・与七、式部少輔(式部丞)[1]。主君の北条氏政から1字を賜って政信と名乗るが、父の秀信も同様に1字を賜って「政信」と改名したため、区別するために「二代目政信」とも呼ばれる場合もある。

元亀3年(1572年)、父が武田信玄による遠江国二俣城攻撃の援軍として派遣された際に戦死したために、その家督を継いだ。足軽衆を率いて各地を転戦し、特に天正9年(1581年)の上杉景勝上野国天神山城攻略と続く武田勝頼による駿河国興国寺城攻撃に対する防衛戦で軍功を立てている[1]。また、本能寺の変後の天正壬午の乱にも出陣して徳川家康と交戦している[1]

菩提寺である香雲寺(現在の神奈川県秦野市)を再興し、現在も位牌が残されているという。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 下山治久『後北条氏家臣団』東京堂出版、2006年、365頁。ISBN 4-490-10696-3