大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年明治8年)3月22日 - 1933年昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者俳人。本名は正信

大谷 繞石
(おおたに ぎょうせき)
誕生 大谷 正信
1875年
日本の旗 日本島根県松江市末次本町
死没 1933年(58歳没)
墓地 松江市の恩敬寺
職業 俳人英文学者
国籍 日本の旗 日本
ジャンル 俳句英文学
ウィキポータル 文学
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経歴 編集

島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た[1]

1892年(明治25年)、京都第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。

1896年(明治29年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学した。同年、島根県尋常中学時代に教えをうけたラフカディオ・ハーンが同大学に赴任し、再会を果たしている。東京大学在学中に、俳人正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に踏み出した。1897年(明治30年)に、松江に帰省し、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて全国で5番目の俳句会である「碧雲会」を発足させた。

1899(明治32年)、東京大学を卒業すると[2]、東京の私立中学郁文館や哲学館(後の東洋大学)、真宗大学などに勤めた。 1908(明治41年)、金沢第四高等学校に赴任し、翌1909(明治42年)には文部省の外国留学生としてロンドン大学で2年間英文学を学んだ。 1922(大正13年)、広島広島高等学校の教授として赴任し、そこで『小泉八雲全集』の翻訳に打ち込み、第一書房から出版された。

著作 編集

著書 編集

  • 『案山子日記 滞英二年』大日本図書、1912年12月。 NCID BA53702597全国書誌番号:43017409 
  • 『繞石句集 落椿』俳画堂、1918年5月。 NCID BA4670383X全国書誌番号:43004046 
  • 『北の国より』敬文館、1922年4月。 NCID BA32723023全国書誌番号:43037287 
  • 『己がこと人のこと』春陽社、1933年9月。 NCID BA42846948全国書誌番号:46082677 

訳書 編集

小泉八雲全集 編集

脚注 編集

  1. ^ 『明治百年島根の百傑(島根県教育委員会 1968年)419頁
  2. ^ 日野雅之『松江の俳人・大谷繞石 : 子規・漱石・ハーン・犀星をめぐって』(今井出版 2009)276頁

参考文献 編集

外部リンク 編集