天問』(てんもん)は、楚辞の1篇で、神話や歴史に関する問いを羅列した長編の詩である。『山海経』と並んで古代の中国神話を伝える主要文献のひとつだが、難解な箇所が多い。

題名 編集

王逸以来の伝統的な解釈では、『天問』は「天に問う」という意味であり、流浪の身にあった屈原が祠堂に描かれた壁画を見て、それに対する疑問をぶつけた作品とする[1]。しかし代には画像石があったが戦国時代の祠堂に絵が描かれていたことは知られていないため、小南一郎はこの説を疑わしいとする[1]

吉冨透は逆に天帝王および輔佐に問うた作品とする[2]:154

内容 編集

漢文 書き下し




遂古之初 誰傳道之
上下未形 何由考之
冥昭瞢暗 誰能極之
馮翼惟象 何以識之

明明暗暗 惟時何爲
陰陽三合 何本何化
圜則九重 孰營度之
惟茲何功 孰初作之

斡維焉系 天極焉加
八柱何當 東南何虧

九天之際 安放安屬
隅隈多有 誰知其數
天何所沓 十二焉分
日月安屬 列星安陳

出於湯谷 次於蒙汜
自明及晦 所行幾里
夜光何德 死則又育
厥利維何 而顧菟在腹

女岐無合 夫焉取九子
伯強何處 惠氣安在
何闔而晦 何開而明
角宿未旦 曜靈安藏

いわ

遂古の初めは 誰かこれを伝道せる
上下未だ形あらず 何にりてか之を考ふる
冥昭盲暗ぼうあんなる 誰か能く之を極むる
馮翼としてれ象あり 何を以てか之を識れる

明を明とし暗を暗とす 惟れれ何をか為せる
陰陽三合す 何れか本にして何れか化なる
圜則えんそくは九重なると たれか之を営度せる
惟れれ何の功ぞ 孰れか初めて之を作れる

斡維あつゐいづくにかかかる 天極焉くにか加はる
八柱は何くにか当る 東南は何ぞけたる

九天の際は いづくにかいたり安くにか
隅隈多く有り 誰か其の数を知れる
天何れの所かかさなる 十二焉くにか分かてる
日月安くにか属き 列星安くにかつらなる

湯谷より出でて 蒙汜にやど
明より晦に及ぶまで 行く所幾里ぞ
夜光何の徳ぞ 死すれば則ち又育す
の利維れ何ぞ 而して顧菟こと腹に在り

女岐は合ふこと無し 夫れなんぞ九子を取れる
伯強は何れの処ぞ 恵気安くにか在る
何くにかじて晦く 何くにか開きて明るき
角宿未だけざるとき 曜霊は安くにかかくれる

形式 編集

『天問』の各句は基本的に4字を1句とするが、それ以外の長さの句が出てくることも多い。偶数句末で脚韻をふみ、4句ごとに韻が変わっていく。『離騒』や『九章』と異なり「兮」のような助字は使われない[2]:149-150

構成 編集

問いはまず天地開闢と天象のことから始まり、による治水と地理のことが続き、の伝説や王の事績、さらに桓公闔閭に及び、最後にの話で終わるが、話の順序が前後している箇所も多い。時代的にもっとも新しい事件は呉の闔閭と楚の昭王の争い(柏挙の戦いを参照)である[2]:149

問いに対する答えはない。小南一郎によると、最初の部分は巫覡集団の中で師から弟子に知識が伝達される際の教理問答的な場を背景にして成立したものとするが[1]:180、途中からは天への懐疑が示されるようになり[1]:232司馬遷史記』伯夷列伝の「天道是か非か」という問いにもつながっているという[1]:175。司馬遷は『史記』の屈原賈生列伝で『天問』を読んだことを記している。

なお『天問』の扱っている神話・歴史の知識は中原のものと近く、出土資料から知られる楚地方特有の神話・祭祀とは必ずしも対応しない[1]:516-517

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 小南一郎訳注『楚辞』岩波文庫、2021年。ISBN 9784003200193 
  2. ^ a b c 吉冨透 著「『楚辞』天問篇の存在意義について―『楚辞』四言の特徴から」、大野圭介 編『『楚辞』と楚文化の総合的研究』汲古書院、2014年、147-167頁。ISBN 9784762965210 

関連項目 編集

外部リンク 編集