姚 震(よう しん)は中華民国の司法官・政治家。北京政府で司法部門の要人となった。次之

姚震
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)[1]
死去: 1935年民国22年)8月27日[2]
中華民国の旗 中華民国天津特別市
出身地: 安徽省池州府貴池県
職業: 司法官・政治家
各種表記
繁体字 姚震
簡体字 姚震
拼音 Yáo Zhèn
ラテン字 Yao Chen
和名表記: よう しん
発音転記: ヤオ ジェン
テンプレートを表示

事跡 編集

清末に日本に留学し、早稲田大学を卒業して法学士称号を取得した。帰国後は、清朝において法科進士となり、法部員外郎、大理院推事を歴任した。[3]

中華民国成立後の1912年民国元年)、新法典編纂会調査員として法典編纂作業に参加した。また、大理院第一庭庭長にも任じられている。同年冬には司法会議会員となった。翌年夏、総統府軍事法律顧問、甄抜司法人員会審議員も兼ねた。1915年(民国4年)11月、司法官懲戒委員会委員となる。[4]

袁世凱死後に姚震は安徽派に属し、1918年(民国7年)夏、高等捕獲審検庁首席評事も兼任した。同年秋には大理院院長兼高等捕獲審検庁庁長に昇進している。[5]しかし1920年(民国9年)に安直戦争で安徽派が敗北すると、姚は直隷派から安徽派十巨頭の1人として逮捕令を発せられてしまい、徐樹錚らと共に日本公使館に逃げ込んだ。[2]

1922年(民国11年)、姚震は段祺瑞の秘書長となり、段が復権した1924年(民国13年)12月には臨時法制院院長に任命された。1927年(民国16年)6月、潘復内閣の司法総長に任じられ、翌1928年(民国17年)2月には大理院長に転じた。なお、姚震は北京政府最後の大理院長である。[5]同年6月に北京政府が崩壊すると、国民政府が姚の逮捕令を発したため、姚は天津の日本租界に逃げ込んだ。その後は政界への復帰を果たすことなく、1935年(民国24年)8月27日に死去。[2]享年52。

編集

  1. ^ 徐主編(2007)、1074頁による。なお「姚震氏逝く」『東京朝日新聞』1935年8月29日は、「享年51」としている。これに従うならば、生年は1885年となる。
  2. ^ a b c 「姚震氏逝く」『東京朝日新聞』1935年8月29日。
  3. ^ 徐主編(2007)、1074頁。
  4. ^ 徐主編(2007)、1074-1075頁。
  5. ^ a b 徐主編(2007)、1075頁。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
董康
大理院長
1918年 - 1920年6月
次代
董康
先代
羅文幹
司法総長
1927年6月 - 1928年2月
次代
王蔭泰
先代
余棨昌
大理院長
1928年2月 - 6月
次代
(廃止)