孝令司空氏(ヒョリョンサゴンし、효령사공씨)は、朝鮮氏族の一つ。本貫大邱広域市軍威郡である。2015年の調査では、2,780人である(同系列の軍威司空氏は1,574人)[1]

孝令司空氏
軍威司空氏
朝鮮
領地 軍威郡
家祖 司空図
著名な人物 司空壱

起源 編集

司空氏は、中国頓丘郡直隷省大名府清豊県、現河南省濮陽市)で系出された姓である。司空氏は賈辛司空の官職を受け、官職名を姓に下賜されたのが始まりである。

歴史 編集

孝令司空氏の始祖は、中国僖宗時代に、礼部侍郎を務めた司空図である。司空図は897年黄巣の乱を避けて一家と7人の学士と、新羅移住し、唐文化の普及に貢献した。乱が平定されると司空図は帰国し、新羅に残った家族の子孫が司空氏の系統を受け継いだ。

その後の系譜は不明で高麗忠粛王時代に奉翊大夫、判儀時事を務め、功を立て孝令君に封じられた司空仲常を1世祖とする[2]

本貫 編集

孝令は大邱広域市軍威郡孝令面一帯の昔の地名である『世宗実録地理志』に孝令を本貫とする姓に劉・司空の二姓が記録されている[3]。1914年、軍威郡孝令面となった。

集姓村 編集

  • 大邱広域市軍威郡孝令面老杏洞
  • 大邱広域市軍威郡孝令面城洞
  • 大邱広域市軍威郡孝令面将軍洞[4]

人物 編集

  • 司空実:司空仲常の息子。字は伯亶。1353年兵科二位で文科に合格して、広興倉使及び大護軍を過ごし、翰林博士により文章と徳行に優れると「東方名賢録」に収録された。
  • 司空敏:司空實の息子。高麗禑王の直臣崔瑩将軍の娘婿。恭愍王と昌王時代にわたって司僕寺正、三司府尹、崇禄大夫、門下侍中に達したが、高麗が滅ぶと、義を通し、官職を捨てて故郷に戻った。娘婿は南洋洪氏洪季康である。
  • 司空達:司空敏の息子。開城留守を務めた。
  • 司空周:司空達の息子。朝鮮で資憲大夫、成均館事を務めた。世祖の王位簒奪を嫌い、都落ちした。世祖がいる北に向かって座ることはなかったという。
  • 司空発:司空周の息子。文宗時代に通訓大夫を務めた。剛直な性格で直諫をして、反感を買い、官職を捨てて学問研究と後進の育成に尽力した。息子が3人をおり、それぞれ宗派・仲派・季派の祖となった。
  • 司空鑌:成宗時代に宣務郎、開城府直長を務めた。
  • 司空誨:宣祖時代に司宰監僉正
  • 司空銑:訓錬院奉事
  • 司空鎔:平丘道察訪
  • 司空習:軍資監直長
  • 司空亮:司空習の息子。刑曹正郎を務めた。
  • 司空琦:弘文館副應教
  • 司空祉:司空鎔の孫。粛宗時代に龍量衛副護軍を務めた。
  • 司空祐:同知中枢府事
  • 司空均:僉知中枢府事
  • 司空鉉:純祖時の兵馬切除使
  • 司空檍(1805年〜1841年):朝鮮後期の文臣、儒学者。号は茶泉。慶尚道赤羅県(現軍威郡)鳩沢里で生まれた。曽祖父は司空墇、祖父は司空焌、父は司空洙である。母方の祖父は洪夏源、先部李尚晦である。1840年庚子式年試進士二等などで合格して、正三品掌楽院正を務めた。37歳で死去した。著書に「茶泉先生文集」2本がある。

現代の人物 編集

科挙及第者 編集

高麗文科

・司空実:1353年丙科2位[5]

生員試
  • 司空鍍(1769年生):1816年式年試3等
進士試
  • 司空榦(1811年生):1835年増広試3等
  • 司空澮(1800年生):1840年式年試3等
  • 司空檍(1805年生):1840年式年試2等

行列字 編集

○世孫 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32
行列字 현(鉉) 영(永) 상(相) 병(炳) 규(圭) 진(鎭) 수(洙) 계(桂) 열(烈) 재(在) 석(錫) 문(汶)

人口 編集

  • 1985年孝令司空氏(739世帯、2,828人)+軍威司空氏(168世帯、730人)= 3,558人
  • 2000年孝令司空氏(867世帯、2,664人)+軍威司空氏(493世帯、1,639人)= 4,307人
  • 2015年孝令司空氏2,723名+軍威司空氏1,574名= 4,297人[1]

脚注 編集

参考文献 編集

関連項目 編集